24 março 2001

os forbrodis+espoas


apesar de morarem juntos, difícil é reunir pra tirar foto... essa foi na fazenda, no aniversário do nosso sobrinho leo.

31 dezembro 2000

2000

 

(吉田光男作成)こうした事態の中で、93年10月、S・M氏がヤマギシ批判の「私のみたヤマギシズム社会の実態」を発表、続いて94年5月、T氏が『ヤマギシ会の暗い日々』を出版、同年6月には「ヤマギシを考える全国ネットワーク」(代表・松本繁世)を立ち上げた。また実顕地内では、美里実顕地のK氏が、「賃金未払い」ということで、津地裁に提訴した。これは調正機関脱退者からの初めての訴訟であり、これ以後参画時の出資財産返還訴訟が何件も繰り返されることになる表、続いて94年5月、T氏が『ヤマギシ会の暗い日々』を出版、同年6月には「ヤマギシを考える全国ネットワーク」(代表・松本繁世)を立ち上げた。また実顕地内では、美里実顕地のK氏が、「賃金未払い」ということで、津地裁に提訴した。これは調正機関脱退者からの初めての訴訟であり、これ以後参画時の出資財産返還訴訟が何件も繰り返されることになる。
 一方、実顕地では、「オールメンバー研」が開かれ、毎年5月山岸さんの墓前で「オールメンバーの誓い」を声高に唱える行事が行われるようになった。外部の批判に揺るがない自己の確立を目指したものではなかったかと思う。
 このようなさまざまな動きにもかかわらず、夏の楽園村には全国で6000名を超える参加者があった。まだ拡大は衰えてはいなかった。また、この当時のマスコミは、一般にヤマギシに好意的であった。生産物や楽園村、学園の紹介を、新聞・週刊誌等が積極的に取り上げてくれた。しかし、これが急激に反転する事態が訪れる。
 このようなさまざまな動きにもかかわらず、夏の楽園村には全国で6000名を超える参加者があった。まだ拡大は衰えてはいなかった。また、この当時のマスコミは、一般にヤマギシに好意的であった。生産物や楽園村、学園の紹介を、新聞・週刊誌等が積極的に取り上げてくれた。しかし、これが急激に反転する事態が訪れる。

〈混乱・縮小前期――1995年~99年〉1995.01.01(平成7)年1月、阪神大震災が発生、次いで3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きる。阪神大震災は、それまで何となく続いていた社会の太平ムードを打ち砕き、地下鉄サリン事件は新宗教やそれと同類と見られた集団(ヤマギシもそこに含まれていた)に、"カルト”‟洗脳”のレッテルを貼り付けることになった。

1995.08.01この年8月、「ヤマギシを考える全国ネットワーク」が、脱退者と参画者の家族に、実顕地に対する訴訟の勧めをアピールした。これに応じた広島のY氏が参画時出資金の返還を求める訴訟を起こす。

1995.08.01翌96年には、Mさんの出資金返還訴訟など、情報公開請求を含むさまざまな訴訟に見舞われることになった。
 こうした時代背景のもとで、それまでデパートに一定の売り場面積を確保していたヤマギシの店が、次々と閉鎖されるようになった。「安全食品連絡会」という団体からの閉店要請を受けてのことであるが、元参画者による「牛乳の日付改ざん」の告発も、生産物の安全面での信頼を失うきっかけになった。

1996.02.01 一方実顕地のほうは、この頃から「本もの」という言葉を多用するようになった。96(H.8)年の2月度テーマは「基盤整備 本もの本質を本筋に乗せる」である。しかし、何が「本もの」であるかの研鑽は十分行われず、実顕地生産物はすべて「本もの」である、という抽象的であいまいな考え方に向かってしまった。この自己肥大化した考え方は、とうてい外部からの批判に耐えられるものではない。しかし、まだ活用者の支持は強く、生産物が大きく減少することはなかったし、特講も活発だった。

1996.11.01 この頃から学園生の祖父母たちによる子どもとの面会要請や、子ども引き取り要求が激しくなる。この動きは、96年11月の「ヤマギシの子供を救う会」の結成(ジャーナリストの米本和弘氏と学園生の祖父母)に至る。これに呼応して、ジャーリズムは一斉に反ヤマギシキャンペーンを開始する。96年11月、日本テレビは「今日の出来事」でヤマギシの子どもを5回に亘り放映、「週刊新潮」など週刊誌も、格好の話題としてこの問題を取り上げた。産経、読売を始めとする各新聞社も同様である。

 こうした反ヤマギシ包囲網の中で、実顕地はどう対応したか。

1997.03.01 97(H.9)年3月度テーマは「日常の総ての現れは もとの心の顕れ」である。また子どもに関しては、96(H.8)年7月度テーマが「親が子供に対して外さない いき方」、9月度が「親と子の異い 親が実践 子供も実践」である。これらテーマの真意は、子どもに対してはわがままを許さない、学園をやめたいとか、係りに対する不満を言わせない、ということであり、また動揺する親に対してはそれは「もとの心」がイズムから外れているからではないか、と引き締めをはかるものであったろう。だから、自分の子どもが「学園をやめたいと言っている」というような話は、村人どうしで話し合われることはほとんどなかった。いきなり村を出る人がいて、「なぜか」と聞くと、ようやく重い口を開いて「子どもが出ると言ってきかないから」と話してくれたりした。

1997.09.01 こうした中で、97(H.9)年、名古屋税務局の税務調査が始まった。この事件は全国紙で「ヤマギシ 脱税疑惑で捜査」と報じられた。翌98年4月、「ヤマギシ会200億円の申告漏れ」と各紙に報じられ、実顕地は60億円の追徴課税を余儀なくされた。
 一方学園のほうは、97年度テーマに「学園 小中一貫学校法人設立へ始動」とあるように、公立校設立準備を始め、

1998.04.01 翌98年4月に「やまぎし学園」設立認可申請書を県に提出した。しかし、これに対しては「祖父母の会」を始め反対運動が根強く、日弁連が「子どもの人権擁護」という観点から勧告を出したり、また県が小中学生に対するアンケート調査を行い、認可不適切の方向へ大きく傾いた。

1998.10.01 ところが98年10月、突然「村から街へ、イズム普遍化の秋来る」というテーマが出された。これは、それまでの全員参画、実顕地拡大という流れとは逆行するものであった。いわば、実顕地解体の方向である。これは、真意不明のまま村人の混乱を引き起こした。こうした最中に、これまで実顕地の運動を指導していた杉本利治さんが亡くなった。

1999.06.01 そのため実顕地は、99(H.11)年6月、申請を取り下げることとなる。この90年代後半の時期は、実顕地にとってまさに激動の時代である。村の指導部門に、ある種の亀裂が見られるようになった。それは村人テーマに表れている。
98年3月度「行ける所へ 行きたい時に 行く自由」
98年4月度「やりたい人がやりたい丈やる自由」
99年9月度「自主 自発 自立 自律」
これらのテーマは、それまでの一定の強い方向性をもったテーマから「自主」や「自由」を強調する方向へ転換している。しかし、完全に変わったわけではなく、方向性をもったテーマとしばらくは同居していた。

〇関連年表
1993年2月:オールメンバー研開催(2000年2月第34回まで続く) 世話係として、Sさんが一貫して担当する。
 5月:オールメンバーの誓い(17名の発表)-以後毎年続く1998年まで続く。
 10月:『自然生活』に松本繁世氏「私のみたヤマギシズム社会の実態」掲載。
 この年新参画者348名で過去最高記録
1994年6月:「ヤマギシを考える全国ネットワーク」結成・代表松本繁世氏
 12月:『ヤマギシズム学園の光と影』「ヤマギシを考える全国ネットワーク」編・発刊
1995年1月;「ヤマギシ会」→「幸福会ヤマギシ会」に会名変更
1996年11月:吉田通昌著『循環農業の村から』発刊
1997年9月:「ヤマギシの子供を救う会」活発化。税務調査始まる
 12月:米本和広著『洗脳の楽園』発刊

1998年1月:モデルメンバー研開催(99年11月第12回まで続く)
 4月:ヤマギシ会200億円の申告漏れ(追徴課税60億)
 10月:9月度のオールメンバー研から端を発した「村から街へ」の動きが、10月度のテーマになり、新たな動きへと大きくうねり始め、街へ行く人が次々と。

1999年3月:実顕地から試験場、研鑽学校を切り離しそこ独自の活動をするための数名の新配置。
 この後、上記のメンバーは次第に脱退するようになる。
 7月:実顕地をもたらしに世界中の街へいこう(ストリーム掲載)
 11月:杉本利治氏死去。(税務調査以後、鬱的な状態にあり実務に携わっていなかった)
 12月:気の合う仲間で実顕地を起こそう。国内各地町にも村にも実顕地を(ストリーム掲載)
 12月28日:第33回オールメンバー研(実顕地を離れて活動している22名の参加)
 離脱後、鈴鹿地区で「実践の書」研を継続的に開催。
 そこに、現実顕地の方向に疑問を感じている人や「村から街へ」を行った人たちが次々と参加して、その動きに共鳴する人が増えていく。
2001年:鈴鹿市にかなりの人が暮らすようになり、家族的なコミュニティが確実に広がっていく。
2004年1月:人間社会研究所→2007年・研鑽科学研究所→サイエンズ研究所が基礎となりサイエンズスクール鈴鹿・アズワンコミュニティなど機構が整っていく。

〈衰退期――2000年~2012年〉
 2000(H.12)年から村のテーマが一切なくなった。方向付けをしない、というか方向付けができない状況になったのである。そして村から街への流れの中で、脱退者が相次いだ。ただこの脱退者のうちには、ヤマギシズムそのものに反対してというのではなく、今の実顕地に異を唱えてという人がかなり含まれていた。そして、この年の12月には、S氏などの人たちが鈴鹿に居を移し、新たな運動拠点を構築した。これによって、村を出る人、それに強く反発する人、両者の間で迷う人と、村人の間でしばらくは混乱が続いた。こうした動きは、学園の解体を早め、学園廃止に追い込まれる実顕地が相次いだ。当然、楽園村も参加者が減り、特講も縮小した。また、活用者グループの解体により、生産物の供給も急速に減少した。1980年以降、供給拡大、楽園拡大、特講拡大、学園拡大、実顕地拡大と互いの相乗効果で伸び続けてきたヤマギシズム運動が、ここへ来て負のスパイラルに陥ったのである。

 このような時にもっとも大事であるはずの研鑽が、十分に力を発揮できなかった。というよりも、研鑽力が村人の間に十分養成されていなかったということであろう。「聞く」「検べる」という最も基本的な部分が欠落していたのではないか、と思う。調正所の言うことは聞けても、それに反対する人の意見は聞けなかったり、またその逆であったりした。つまり、誰の言うことでも聞けて、誰に対しても言えて、では本当はどうかと検べる、検べ合う――この基本的な研鑽力が身についていなかったのである。

 これは、これまでの特講、研鑽学校のあり方、中身を検討するいい機会であったと思うが、ほとんど取り上げられることはなかった。そして従来通りの研鑽体制を今なお踏襲している。

 この2000年前後の時期で記憶に残っていることの一つに、こんなことがあった。熊本の甲佐実顕地にいるとき、何人かの供給所のメンバーが、配送車や運輸トラックに書かれた「ヤマギシ」の文字を薬品で消しているのだ。「何しているのか」と聞くと、本庁から消すようにとの指示があった、というのである。周囲からの反ヤマギシキャンペーンが盛んなこの時期こそ、「我々はヤマギシです」と胸を張ってなぜ言えないのか。なぜ隠さねばならないのか。同じように、農産物でも、これまで「本もののヤマギシの生産物」と謳っていたのに、「なになに農園の農産物」とヤマギシの名前を隠すことがはやり出した。こうした姿勢の裏に、何があったのだろうか。次の運動の発展のためには、避けて通れないテーマのはずである、と思うのだが

20 janeiro 2000

zémauro


romeu+alam+zémauro
o zémauro, fez med.veterinária comigo na uel, entramos no 2o. semestre de 1975. veio de sp-capital, um paulistano que foi fazer faculdade no interior... e eu, um nisseicaipira que nunca saiu de londrina, um crente evangélico não tão crente que mal tinha autodesertado de igreja holiness, foi ele que me colocou em contato com as coisas cosmopolitas (da época, é claro...), os teatros, as musicas, iamos acampar nas praias ainda desertas do litoral norte (antes de chegar o asfalto), depois de se frustrar na empreitada de pós-graduação em campinas-piracicaba, estabeleceu em são sebastião, abriu a 1a. clinica veterinária.

fomos lá visitá-lo, eu ines e romeu.

01 janeiro 1997

berrante, panela e pincel

berrante, panela e pincel

De galochas brancas, bermuda e camiseta, Katsue Yuba, 61, mantém um olho no fogão e outro no relógio. Além de pilotar a panelada na cozinha comunitária, cabe a ela a missão de tocar o berrante, religiosamente, às 6h, 12h e 18h. Buzina de chifre com que os boiadeiros tangem o gado, em Yuba, o instrumento tem outra serventia: anunciar aos moradores que a comida está na mesa.

Por baixo do disfarçe de cozinheira caipira, Katsue esconde outras habilidades. Sua verve artística irrompe a cerca de dez metros da cozinha, na casa desenhada e construída por ela, que mais se parece com os ateliês "hipongas" de praia no Sul da Bahia.

Quadros, fotos, objetos de madeira reciclada, esculturas, molduras, haicais (poemas japoneses constituídos de três versos), livros de contos e histórias. Esse arsenal se completa com anotações em japonês e português, idioma que Katsue só conheceu aos 29 anos.

No centro do estúdio, uma grande tora de aroeira oferece sustentação ao imóvel. "Aqui é a minha base. Madeiras como essa ergueram nossas primeiras casas", conta. "Meu pai dizia que nós não temos o direito de cortar árvores como essa, que levaram anos para se desenvolver, usá-las e depois abandoná-las", diz, emocionada, ao citar Isamu Yuba (1906-1976), fundador da comunidade. "É pelo respeito à natureza e à história dos meus pais que eu nunca vou desertar dessa terra."

Em meio aos quadros, o desenho de uma senhora com uma menina ao lado chama a atenção. "Mamãe" é uma homenagem póstuma a Hama, mãe de Katsue, imigrante japonesa que viveu uma saga ao deixar o Japão e partir para um país incógnito.

Vítimas da gripe espanhola, os pais de Hama morreram às vésperas de rumarem para o Brasil, cerca de 80 anos atrás, quando a menina tinha dez anos. A jovem deixou o Japão seis anos depois, adotada pela família Katsuda. Levaram 60 dias para chegar a Santos.

Hama se casou com Isamu antes de ele fundar a comunidade Yuba. À época, ela tinha 19 anos, ele, 24. O casal teve 11 filhos. A menininha do quadro morreu aos quatro meses de vida. Katsue usou terra do túmulo da mãe para pintá-lo, em janeiro deste ano.

Cinco anos após a morte de Hama, Katsue encontrou o diário secreto da mãe. As anotações serviram para a filha escrever o livro "A Frondosa Árvore de Hama", publicado de modo independente e nos dois idiomas (pode ser encontrado em livrarias no bairro da Liberdade).

A cozinheira-artista visitou a terra natal dos pais três vezes. Na última, em março, Katsue levou as cinzas da mãe para colocar no túmulo dos avós maternos. "Foi uma maneira de dizer a eles que minha mãe viveu muito bem aqui no Brasil."

Assim que despejou as cinzas de Hama, a filha lhe prestou mais uma homenagem. Com voz de soprano, cantou ave-maria. Em latim.

a pátria de sapatilhas

a pátria de sapatilhas



Aula de dança na fazenda

Faça chuva ou faça sol, Akiko Ohara não consegue ficar parada. Emulando gestos de adolescente, essa senhora de 72 anos movimenta os braços, ergue as pernas, faz aberturas e ainda comanda com disciplina oriental 30 alunos, dos 5 aos 85 anos.

Quarenta e seis anos se passaram e a criadora do Balé Yuba não deixou de se perguntar como aqueles corpos, castigados pela labuta diária e o sol quente da roça, conseguem se tornar tão maleáveis sobre o palco.

São agricultores durante o dia que, à noite, transformam-se em bailarinos. "Eles não freqüentaram uma escola de balé nem havia tradição de dança em seus históricos familiares. O que sabem aprenderam aqui, dentro da comunidade", diz Akiko.

Ao lado do marido, o escultor Hisao Ohara, Akiko deixou Tóquio para tentar vida nova no Brasil, onde chegou em dezembro de 1961. "Um amigo disse que eu teria a chance de criar muitas coisas novas por aqui. Acreditei. Mas, para vir para cá, precisava trabalhar com alguma coisa que eu dominasse: o balé."

Do outro lado do mundo, Isamu Yuba, o criador da comunidade, estava procurando, naquela época, profissionais para tocar o projeto cultural em sua fazenda no Brasil. Bingo.

Quando o casal chegou a Yuba, juntou-se aos moradores para, em dez dias, colocar de pé o palco do teatro Yuba, que mede 10 m de largura por 12 m de fundo, com capacidade para 800 pessoas. É ali que acontecem, até hoje, as principais apresentações culturais da comunidade -além do balé, espetáculos teatrais são encenados na época do Natal.

Desde aquele dezembro, o Balé Yuba não parou mais. Neste fim de ano, completa mil apresentações. Já esteve em diversas regiões do Brasil, Japão e Paraguai. É um balé de dança moderna, diz Akiko, nas poucas palavras que articula em português.

Os garotos das primeiras gerações achavam que balé era "coisa de menina". Viviam inventando desculpas para cabular aula, que não é nem nunca foi obrigatória. "Aos poucos, de geração em geração, eles foram percebendo que a dança deve ser cultivada com o mesmo esmero que uma fruta", diz. "O balé se tornou tão indispensável para nós quanto a comida, a reza ou o sono. Faz parte de nossas vidas, da nossa essência."

As crianças têm aulas de balé duas vezes por semana (para os adultos, são três).

O Balé Yuba já teve cenários projetados por artistas como Manabu Mabe e Yoshiya Takaoka. Ex-colega de palco de mestres do butô (movimento que combina dança e teatro performáticos) como Kazuo Ono e o coreógrafo, bailarino, filósofo da dança e professor Tatsumi Hijikata, Akiko conta que o processo de criação da coreografia se divide em duas etapas.

A primeira sempre leva em conta o cotidiano rural da comunidade. Reproduz movimentos da natureza e jogos lúdicos infantis, por exemplo. A segunda busca inspiração tanto na cultura japonesa como na brasileira, do quimono às bombachas gaúchas, passando pelas festas tradicionais dos dois países.

Criado em 1965 e apresentado até hoje, o espetáculo "Bravos Pioneiros" narra a trajetória da primeira geração de imigrantes de Yuba. É o favorito de Akiko. "É o retrato do meu povo. Cozinheiras, lavadeiras, boiadeiros, agricultores...", diz ela. Gente que horas antes de subir ao palco está picando verdura para a salada, apanhando goiaba ou tocando a boiada no pasto. Em Yuba, a dança os iguala. "Quando a luz se acende, todos nós somos bailarinos."

A Grande Familia

Em território paulista, a comunidade rural de Yuba reúne 61 japoneses e descendentes que abdicam de dinheiro, conforto e casa própria em nome do coletivo


Parte dos 61 integrantes da comunidade Yuba, na região de Mirandópolis (SP)

A grande família

por Roberto de Oliveira
fotos Maria do Carmo


Existe um lugar onde o Brasil faz fronteira com o Japão. Fica logo ali, a cerca de 600 km da cidade de São Paulo. Na saída da rodovia Marechal Rondon, a placa avisa: Associação Comunidade Yuba.

Em princípio, parece uma simples fazenda, com uma imensa varanda colonial e velhos tratores estacionados ao relento. Conforme se aproxima, o cenário se confunde. Yuba não é apenas uma propriedade rural nem seus habitantes meros lavradores. Às vésperas dos cem anos de imigração japonesa no Brasil, a comunidade cravada no interior do Estado ainda preserva costumes milenares e cultiva, além da roça, uma rotina cultural sem paralelos com outros confins do país.

Às 18h, uma senhora sai da cozinha, emite palavras incompreensíveis para a reportagem e saca um berrante, instrumento tão difuso no Brasil rural arcaico, para anunciar a hora da janta.

Os trabalhadores vão chegando e tomam assento em longos bancos do refeitório comunitário. Um minuto de silêncio antes de comer. Uns agradecem a Deus, outros a Jesus e há espaço para Buda.

Ao lado dos talheres, hashis, os tradicionais pauzinhos. Não se ouve uma só palavra em português. A língua oficial é o japonês, assim como o cardápio.

Não há refrigerante. O que se bebe é chá gelado. O jantar parece derradeiro em mais um dia de tarefa. Ledo engano.

Na comunidade Yuba, não basta só cultivar a terra. O sol se põe e a luz da noite ilumina mais uma etapa no aglomerado agrícola. O refeitório coletivo, repleto de ideogramas, vira uma animada sala de coral e piano.

A poucos passos dali, música clássica embala aulas de balé. Senhoras e senhores, que labutavam horas antes no campo, deixam seus sapatos do lado de fora e começam a se alongar. Na casa ao lado, um agricultor com as bochechas marcadas pelo sol toca trompete, enquanto a vizinha, ainda cheirando a alho de cozinha, pinta um quadro.

Ouvem-se gargalhadas. Vêm da biblioteca, onde adolescentes se debruçam sobre pilhas de livros na aula de japonês. As crianças de Yuba só são alfabetizadas em português a partir de seis anos.

Inteiramente comunitária, a vida em Yuba lembra o sistema social idealizado por Thomas Morus (1478-1535) na imaginária ilha Utopia. Com uma diferença: há 72 anos, um grupo de japoneses e descendentes luta para subverter as regras do sistema capitalista e manter coesa uma comunidade rural nos arredores de Mirandópolis.

Nenhum de seus moradores goza de regalias ou privilégios. Nem mesmo o presidente da associação. É livre a escolha do "setor" onde querem trabalhar -horta, roça, gado, com galinhas, porcos ou panelas. Eles exercem seus ofícios em sistema de rodízio, para garantir que todos aprendam um pouco de cada função e não resvalem no tédio.

O produto do trabalho, ali, não é grana no bolso. Ninguém recebe salário e não há transações locais com dinheiro. Se alguém precisa de um par de tênis novos para jogar beisebol, o esporte favorito da comunidade, leva o assunto à administração. O mesmo acontece com as outras necessidades materiais. Já alimentação, moradia e atividades culturais dispensam qualquer controle burocrático. Em Yuba, são direitos de todos.

Cultura de subsistência
Para manter a comunidade, há um gasto mensal em torno de R$ 15 mil que corresponde a despesas com telefone, energia elétrica, comida e manutenção do maquinário, explica, em bom português, o presidente da associação, Tsuneo Yuba, 53, no seu segundo mandato. Compram-se produtos como arroz, feijão, óleo, sabonete e café.

Cerca de 60% de tudo o que se consome é produzido na própria fazenda. Frutas, verduras, leite, carne, pão, manteiga, geléias, macarrão e até shoyu. Há um poço artesiano que abastece a fazenda, inclusive o ofurô coletivo, masculino e feminino.

Yuba funcionava como uma grande comunidade, mas, no papel, transformou-se numa associação, composta por presidente e vice, tesoureiro e secretários, eleitos de forma democrática, pelo voto direto. O quadro administrativo surgiu como alternativa para controlar a entrada de recursos, obtidos principalmente com a venda de frutas e legumes, e as despesas para sustentar o local.

Eles preferem manter em sigilo o faturamento da comunidade. "Temos todo interesse no lucro e estamos lucrando. Só que o dinheiro ainda só dá para pagar contas", diz Tsuneo. Como associação, os administradores alteraram estratégias de venda. Antes, os alimentos passavam por atravessadores, o que reduzia o lucro. Agora, vão direto para os pontos-de-venda, como supermercados.

Se a dificuldade financeira está sendo superada, Yuba enfrenta outro obstáculo: a sobrevivência de seu modelo. "Acho natural que a comunidade um dia acabe. Esse tipo de sociedade praticamente não existe mais num mundo capitalista e globalizado como o de hoje", diz Tsuneo.

A sobrevida, portanto, é responsabilidade dos jovens. O empecilho na hora de gerar novas famílias é que a maioria tem algum grau de parentesco. Cerca de 30%, por exemplo, são da linhagem Yuba -em japonês, lugar do arco. Recomenda-se, portanto, evitar o casamento entre eles.

Mas nem todos se vêem trocando alianças com um gaijin (estrangeiro). "Meu sonho é me casar com alguém da própria comunidade. Os rapazes da cidade são desinteressantes e infantis", acha Mie Yuba, 19. Seu irmão, Daigo, 23, diz não se importar se a garota é japonesa ou brasileira, mas faz questão de frisar: "Os japoneses ajudam uns aos outros e valorizam sua cultura. Isso é muito importante".

Yuba já foi uma grande comunidade, com cerca de 300 integrantes; hoje, são 61, contingente formado basicamente por adultos que não pensam em deixar a terra. "Nasci, cresci e casei aqui. É uma utopia que virou realidade", diz a cozinheira Yumiko Kumamoto, 48, professora de desenho nas horas vagas.

A resignação de Yumiko não é coletiva. Por exemplo: a comunidade não paga estudos a nenhum morador. De certa forma, isso impele os que querem estudar a deixar o grupo. Quem quiser sair para fazer faculdade deve contar com sua própria renda. Como eles não têm salário, muitos vão trabalhar no Japão, fazem um pé-de-meia e retornam ao Brasil para concluir o curso universitário.

Daigo, assim como outros jovens de Yuba, costuma sair nos fins de semana, para dançar, paquerar e tomar umas cervejinhas em Mirandópolis.

Arte, terra e oração

Yuba mantém atados os laços com a herança oriental introduzida por seu fundador, Isamu Yuba (1906-1976). No início dos anos 20, a região noroeste do Estado de São Paulo parecia o lugar perfeito para que um grupo de recém-chegados do Japão criasse um assentamento de imigrantes. O núcleo tinha até nome, Aliança, que para eles tinha o sentido de cooperação mútua entre imigrantes japoneses e a sociedade brasileira.

Cerca de mil famílias japonesas foram para aquela região e formaram a primeira, a segunda e a terceira Alianças, entre 1924 e 1927. Quando soube da idéia, Isamu Yuba, então com 20 anos, decidiu, apesar da resistência do pai, partir com a família composta por dez integrantes, rumo ao interior paulista.

O ano era 1935. Isamu começou a construir a fazenda com a ajuda de amigos que compartilhavam da mesma ideologia. Sob o tripé "cultivar a terra, orar e praticar as artes" surgiu a comunidade Yuba. Seu líder e fundador teria sido influenciado pelas idéias de Tolstói, Marx e Jean-Jacques Rousseau, aliadas aos ensinamentos da Bíblia.

Semelhanças com os kibutzim israelitas? Os parentes de Yuba descartam. Na comunidade, há quem defenda que a inspiração veio de uma antiga vila de descendentes lituanos, criada naquela época nos arredores de Bastos (SP).

O antropólogo japonês Koichi Mori, 51, do Centro de Estudos Japoneses da Faculdade de Filosofia, Letras e Ciências Humanas da USP, vê outras ligações. Ele acha que a criação de Yuba pode ter sido motivada, principalmente, pelas idéias do escritor japonês Saneatsu Mushanokoji, autor de um famoso romance intitulado "Atarashikimura" (comunidade rural nova), escrito no início do século passado e de cunho comunista.

Segundo o antropólogo, a obra influenciou a criação de comunidades agrícolas, parecidas com Yuba, em diferentes partes do Japão. Algumas delas existem até hoje. ''Yuba foi criada na época liberalista japonesa conhecida como Taisho. Entre os movimentos que surgiram naquele período, estão os de comunidades socialistas em áreas rurais'', explica.

Yuba, o fundador, morreu em 1976, aos 70 anos. Yuba, a comunidade, equilibra-se como pode para manter de pé a filosofia de seu criador.

Recepção de forasteiros
Os visitantes são apresentados à comunidade no refeitório coletivo. Eles devem respeitar o horário das refeições e jamais começar a comer antes do minuto de silêncio em agradecimento. Em nenhum momento o forasteiro será abordado pelos locais ou questionado sobre sua presença ali. Assim se sentirá à vontade para participar das atividades culturais e de lazer.

É um equívoco imaginar os moradores de Yuba vivendo em uma redoma, excluídos do contato social. Não há muros nem portões que delimitam a propriedade rural. As portas não possuem tranca, as janelas são fechadas por cortinas.

Há TV via satélite (telejornais japoneses e jogos de beisebol são os mais concorridos) e acesso à internet. Eles assinam três jornais (um de circulação nacional) e recebem muitos visitantes, brasileiros e estrangeiros -japoneses sobretudo.

Suguimoto Massaro, 63, chegou há pouco mais de um mês com a decisão de ficar. Não é sua primeira vez. Em 1965, havia passado seis meses na fazenda. Voltou para o Japão e perdeu o contato com a colônia. Vasculhando a internet, restabeleceu contato. Desta vez, jura que a mudança é definitiva. "Eu me sinto jovem aqui. É o lugar que escolhi para ter uma nova vida. Até vendi minha casa no Japão", diz, em inglês.

Responsável pela produção de shiitake, Yoshiki Tsuji, 56, que também costuma animar o refeitório comunitário após o jantar com seu clarinete, está em Yuba desde 1983. "Aqui não existem normas. Não me falta nada. Quero morrer aqui", contou, em espanhol fluente, idioma que aprendeu viajando pela América Latina.

Mesmo com todo o apego que exibem os mais velhos, o presidente da associação acredita que Yuba vive próxima do fim. "O jovem que sai para trabalhar ou estudar dificilmente regressa à comunidade", reconhece.

Para o antropólogo da USP Koichi Mori, há muito, Yuba se tornou permeável à lógica capitalista. ''Os jovens saem para trabalhar no Japão, para ganhar dinheiro e poupar'', conta. Koichi não arrisca um palpite sobre quanto tempo a comunidade irá resistir. ''O grande conflito cultural é como manter a união entre japoneses e descendentes'', diz ele.

Numa visão otimista, a salvação de Yuba estaria num novo ciclo de colonização japonesa, com a chegada de mais uma leva de imigrantes. Fato é que nos últimos dez anos apenas um japonês imigrou para Yuba e formou família com uma moradora local. Ao mesmo tempo, a evasão atingiu 20 yubenses.

Os que ali ficaram sabem que são herdeiros da terra e daquele modo de vida. Pelo menos enquanto a comunidade existir.

31 dezembro 1993

1993

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1993.01
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1993.02
1993.02.21 07o.tk 21a28(rom,mar,isa) Nena, Mari, Eleni, Eliana,Alice

1993.02.15 mitio e familia vem para despedir de totyan - (nota da d.marina: mitio totalmente contra yamaguishismo, acha que está trabalhando contra deus(diário marina)

1993.02.15 1o. All Member Ken"

1993.03
1993.03.00 chegada sakamoto e kumiko


1993.04
1993.04.04 08o.tk 04a11 (rom,isa, mar) Giba, Gina, F.Cambiucci, Carla

1993.04.08.acidente com D-20 na volta da fazenda, dona marina junto


1993.05

1993.05.03 Juramento All Member - 17 membros


1993.06
1993.06.16 Alam Brail->Japão (3o.All Member Ken)


1993.07
1993.07.21.Alam Japão->Brail


1993.08
1993.08.00.


1993.09
1193.09.05.09o.tk 05a12 (rom,isa,mar,ine) horacio

1993.09.30.na fazenda


1993.10
1993.10.00. aiwakan nakayoshiken


1993.11
1993.11.31 10o.Tokkou (31 a 06) (Romeu, Marceline, Isack, Ines) 

1993.11.00 Assalto com Ines & Kami


1993.12
1993.12.26 983o.Escola de Kensan para membros(北原、町かよ)

1993.12.08 Toyan no Jikkenti
1993.12.19 Alam para Brasil

31 dezembro 1992

1992

 

1992                                                           

1992.01.02 foto ano novo com todos

1992.02.00 passeio trem alam,ines,anando,mira,marina

1992.02.00 

1992.03.04 04o.tokkou 01a08 (romeu,ines,keigo) Nagaoka,Juliano,Nelson(Pedreira)

1992.03.29 Hosuke, Naoko e Lucas chegam de Japão

1992.04.16 aniversário anando

1992.04.23 fax miyati para romeu: laurence no japão, isack e marceline em maio pra brasil

1992.05.20 Isack e Marceline chegam de Japão, Keigo brail->Japão

1992.05.30 kitaouji chega de japão

3892.06.03 03 a 14 Eco92 - (Kitaouji, Okano,Takagi) 

1992.06.11 kitaouji parte para japão

1992.06.12 isack&marceline chegam de Eco92

1992.07.31 romeu vai para mato grosso buscar madeira

1992.08.02 katei kensan zoológioco de bosque (alam,ines,mira,anando,marina)(diário marina)

1992.08.12 romeu chega de mato grosso (diário marina)

1992.08.18 05o.tk 14a21 (romeu,marceline,isack) Ricardo

1992.08.28 Cerimonia de Casamento Isack&Marceline

1992.08.30 keigo, haruna, midori para japão

1992.09.04 laura e tinha vem de londrina para jikkenti(diário marina)

1092.10.11 06o.tk 11a18 (rom,mar,isa) Ralf

1992.11.00.

1992.12.00.



01 janeiro 1991

1991 a 2000

1991                                                           

1991.01.03 Mrm encontrada morta na casa dela em Londrina

1991.01.06 Ins Japão para Brasil (Ins traz ezu-ken na mala)

1991.01.09 01o.tk 09-16  (Rmu, Ins, Akk, Kmi, Kgo, Alm)

1991.01.22 Alm &Ins para Londrina buscar mudança (22 a 28)  todas coisas da casa

1991.02

1991.02.21 Hsk, Nko e Lcs partem para Japão 

1991.02.24 fax nanako&lucio pra alam&ines


1991.03

1991.03.01 Hsk vai Kensan Gakkoh Japão (01 a 15)

1991.03.20 Isk parte para Japão


1991.04
1991.04.27.02o.tk 27-03 (Rmu, Ins, Akk, Kmi, Alm)


1991.05
1991.05.00 Negociação compra de Fazenda

1991.05.30 Alm para Londrina


1991.06
1991.06.00.Inicio Fazenda

1991.06.05.Alm chega de Londrina

1991.06.24.Alm para Londrina


1991.07
1991.07.12.Vinda de Nnk e Shg

1991.07.20 Vila Paraiso (20 a 28)


1991.08
1991.08.14.Akk - nasce Guto

1991.08.27.Kmi e Fme voltam de Manaus


1991.09
1991.09.00.03o.tk 15-22   (Ins, Rmu, Kgo, Akk, Nnk)


1991.10
1991.10.00 Ins faz 2o.a - viagem a Rolândia - visitando Chácara Canaã (diário Marina)

1991.10.02.plantio de grama com 15 empregados da fazenda

1991.10.10.chegam casal Szki, casal Wtb, Kktn,  com And e Mra (Alm e Rmu vão busca-los)

1991.10.18.voo sobre fazenda (Alm, Kktn)

0991.10.22.Nnk vai para Japão


1991.12
1991.12.16 AiwaKan-Nakayoshi-ken

31 dezembro 1990

1990 (35 anos)

1990.02.00. Rmu e Akk Brasil->Japão (Akk grvd)

1990.03.00
. Seikatsu-hou(Sge, Kwi, Stk), Fredy, 竹中, 福田, 大角洋子, 恩田美由紀, 藤川房雄, 青野正秋.

1990.04.11
. Junto com shokoku-sei

1990.05.07. Fax Isk - visita Karube, quer vir para Jikkenti, Kgo pedindo para ver a separação Jla
1990.05.17. Alm para Brasil (17/maio a 30/junho)

1990.08.22. D. Marina parte Toyosato->Yubari-G Kensan Gakko

1990.09.13. Rmu&Akk chegam no Japão - Alm vai buscar no aeroporto Osaka
1990.09.17 Rmu leva Tnha e Lrh para Mutsugaewa-G, visita do Shigeru Yamaguchi
1990.09.18 Rmu & Tinnh/lra chegam de Mutsugawa-G
1990.09.22 Cerimonia de casamento Rmu&Akk
1990.09.03 Ins+Tnh+lra - turismo Nara
1990.09.26 praia com todos os Shokoku-sei

1990.10.01 Tnh e lra vão para tokkou - Alm de interprete
1990.10.06 D.Marina+Rmu+Akk Japão->Brasil
1990.10.12 Tnh+lra Japão->Brasil

1990.11.00 fax Isck, Ikuo quer vender data Jd.California

1990.12.08 Toyan no Jikkenti
1990.12.19 Alm para Brasil