28 fevereiro 2019

わがブラジル移民のあゆみ 



わがブラジル移民のあゆみ 


箕輪新七


或る日、父の姿が見えないのに気がついた。それは大正四年の春、私の四歳の時であった。西も東もわきまえない、ましてや家の事情など全く解らぬ幼さであった。そのまま何時までも父は帰って来ない。父が消えてか ら夏、秋が過ぎて冬に人った或る日、何気な く奥座敷の襖を開けたら矩健に祖父が居り、母がその前にうなだれていた。その姿から幼心にこれは只ごとではないと感じられた。

それからいくばくもなく母は六歳の姉と二歳の 弟を連れ私を残して父のもとへ行ってしまっ た。母が珍しく私を膝に抱きよせて、色々と言い聞かされたが、只柔かい母の膝の温みと熱い涙が私の頬に落ちて首筋を伝っていった 冷たさだけが鮮明に残されている。当時母は 二十一歳の若さであった。

そして、既に妻に 先立たれていた祖父四十五歳とその母六十五 歳と私の三人の生活が始められた。その頃は 軽井沢の隣、御代田駅まで出て汽車に乗った。 その後小諸駅から山梨県に出る佐久鉄という 軽便鉄道が生れ、その巾頃の中込駅で降りる。

佐久平の一角、西に浅間山の噴煙を仰ぎ一方 に北アルプスの連峰、他方には八ッ岳の峻峯、 夜は千曲川のせせらぎが聞える、そんなたた ずまいの中の六十戸程の一寒村であった。

父次郎が里に帰ってしまった経緯など知る よしもなく、誰も話してくれることもなく今 日に至っているが、思えば祖父龍介が世話好 きで、村の世話、人の世話で家を省みず、又 事業に失敗して財産を失った上に、派手な生 活をして更に借金を増やすといった有様に遂 に父次郎は去る腹を決めたのであろう。

時に 父は一二十歳であった。母なみも一時は父が帰 ることに望みをつないだであろうが龍助との 間が簡単に納らないことを思い、自分も夫の もとにゆくと決心して、あの炉縫での祖父龍助との対話はその許しを乞うていたものであったろう。龍助もそれを許さざるを得なかったものの、家名を残すという旧来の設も大切 な立前から長男の新七はこの家を継ぐものであるからお前にはやらない、自分が立派に育てる、長女と次男は連れて行けと云ったものであろう。

涙ながらに私を残して行った母の 心情を今になって泌女あわれと思う。 さて婿に去られ、一人娘に去られてこの孫 新七を自分一人の手で一人前に育てあげてこ の家を継がすと乾坤一郷の思いを新たにしたであろう祖父龍助もそれから一年経たずに癌 に命を持ち去られてしまった。本家に対しては労を惜しまなかった祖父であったから「私 の死後は何卒よろしくお願いします」とだけ 云っておけば何事も善処されたろうが死んだ 後までも自分の思いを徹そうとする昔気質の 祖父は遺一曹をして「新七は絶対に親に遮してくれるな、有るものは一切本家に任せるから 新七の養育をしてこの家を再建してくれ」というのであった。

そして新七(五歳)は本家に 引き取られて行った。私は昔気質の、なほおば あさんにきびしく朕けられて行った。質屋で あった生家は広い宅地に土蔵がデンと在り、 かつては大家族で家も大きかったが間もなく 屋根がはがされ、取壊されてゆくのをじっと 眺め、何故どうして、……もう自分の帰る家が なくなる、父母兄弟が去り家もとりこわされ て、五歳の私ははじめて得体の知れぬ不安が この時より生れたのである。

父母の住む隣村は歩いて三十分の処であったが、遺言を固く守る本家のおばあさんは私が小学校にあがるまで父母の処に行くのを許さず、小学校に入ったその次の正月はじめて許されて父母の処 へ元且に行き一晩泊まって二日のタ方には必ず帰るようにいわれてそれを守った。その頃すきやきなどという可葉は知らなかりたが皆で楽しくすきやきをつついたのであった。

本家で生活は不足など決してなかったが、二十人以上の大家族で同じ年頃の子が五人も あり、何時も与えられるものに差があったが 自分はここの子ではないのだと僻むこともな かった。中学三年まで好きなスポーツ、特に 剣道が好きで風邪で学校を休んでも放課後の 剣道の練習は欠かさぬ程であったが三年を過ぎてから基礎の不勉強がたたって理科系は全く解らなくなり中学卒業もおぽつかなくなった時点で、将米の方引を本気で考えはじめた。あの昭和初期の国難的な不況、「大学は出 たけれど」の時に中学もまともに出られないものがどうするか、祖父が本家に白紙委任状を臓いて行った財産など当てにすぺくもない。自力での道を探っていた時に新聞を見た。

ブラジル移住、長野県の信濃移住地建設の記事、それ以前に中学の地理の先生がブラジ ルに移住を熱心に説いたことがあり、又世界探険家と称する菅野力夫という人物の海外発展呼推の難を、また志賀重剛の世界漫瀞の話をも中耽で聞いていたので心が動き、早速長野県庁からアリアンサ移住地要覧なるものを取り寄せて読んでいたら、本家の当主、慶大出身の息子がそれを見て「ブラジルに行きたいのか」というから「行き度い」と答えたら 直ちに賛成した。

これは多分に龍助の遺言通りに新七をたててやることの大変さから逃れる好機と思ったに違いない。ところがこれを聞きつけた私を本家とする五つの分家が、吾々の正家をブラジルに追い払うつもりかと龍助の位牌を持って本家の庭に坐りこむという 一事があったが、これは新七本人の意志であるからと説き伏せてやっと納得させた。

このことを父母に告げに行ったら、そうか、そうかいと云っただけだったが、父母の胸中の思いは私の胸の中ヘ沁み入るのであった。 中学四年で中退していよいよブラジル移住 を決定的にして東京の練馬区にある移住の為 の準備校日本力行会海外学校に入り、ここで キリスト教を根本とした移住理念を一年半た たきこまれて、一九三〇年八月十八日、「行け行け同胞海越えて」と学校の生徒の歌に送られて新造船らぷらた丸で神戸を川港したのである。

七千噸で定員七百人に三百五十人の乗客で、水なども制限なく、やや楽な航毎であった。私は未成年で単身だったので査証に一千円の積立金が要り、当時船賃が二百円で、千円という大金は持ち合せず、北米から転ずる力行会先輩のK氏から借りて査証を済 ませ、九月二十八日希望峰を仰ぎつつ十八歳 の青年となった。

出港直後からシンガポールまでは海が荒れて先が思いやられたが、印度洋は波静かに赤道祭も賑やかに行われ、ケーブタウンから一路リォデジャ不イロへ五十余日の地球半周の航海も楽しく十月九日無事サントス港に移民船は横付けになった。タラッブを一段一段とゆっくり降りて遂にカナンの地・フラジルの大地を踏みしめたのであった。

サントスの町は助排の香りに満ちていた、これぞコーヒーの国の感を深め、黒、白、黄 褐色と、とりどりの人種が行き交うのに、これが人種差別のないブラジルと思いを深めた。そして薪を焚く汽車がゆっくりと海岸山 脈を越えてサンパウロの移民収容所に入った。日本移民の大荷物に対して、イタリヤ移民などの実に身軽に来ているのに驚きながら。折柄の三十年革命の兵士たちと一夜を共にした。

サン・パウロの移民収容所に入り、食事が一変して、年寄りはのども通らないというほどであったが、若い者は珍らしがって何でも食べた。炊事場をのぞいたら大木を輪切りにした台に牛の大骨をのせて斧で叩き切っているのには驚いた。これがブラジルの主食の豆料 理となって、吾々に給されたのである。

次の日、石炭汽車などで五百キロを乗り次いで、サンパウロ州開拓前線基地のアラサツーバ市、人口一一万に到着、そこの日本人の宿屋に泊る。バナナが食ぺたくなって一枚の札を出したら背負うような大房が来て驚く。次の朝いよいよ最後の行程へ。汽車が革命軍の輸送に占められて貨物自動車で信濃村ァリアンサ 移住地へ向かう。

新婚の三夫婦と吾ら三青年 が荷物と一緒に積みこまれて、今までは切れ 切れの原始林であったが、いよいよ全くの原始林の中の道なき道、大木の根が両側から張り出しているガッタン・コットン道を、時に倒れ木を押しのけながら百キロの道程を十二時 『回がかりで、目的地の宿に着いたのは夜中、さすがに女性三人は疲れ切った様子、近くからポオンポオンと異様な音が聞こえてくる。牛蛙の声だという。いよいよ他郷だと思う。

次の朝、さらに移民村に只一台のトラックに 乗せられて、原始林をくぐって二十キロ、呑気な運転手は猿にビストンを放ったり、木葡萄が熟れているのを採ったりして、昼時漸く日本力行会南米農業練習所という看板に辿り着く。三十名程の青年、 先発の諸友に迎えら れてホッとする。

こで四年間、山を伐る、山を焼く、焼け跡を片付ける、瑚緋を植えるなどする。瑚排の畝間に米や唐黍を植・兄一)瑚排が生産されるまでの生ユ伯を支える。四年目に初瑚球が採れ て、自立の道に進むのであるが、私は丸一年 で風土病を得て開拓に落伍、折柄設立された 産業組合に働くことになった。

日本人の行く 処、必ず生産物が過剰になると云われるが、その例にもれずこの信濃移住地が発足した 時、珊球価は、収穫されたままの皮付実一俵 四十キロが六十ミルしていたものが、七年目いよいよ生産が本格化した時には僅か入ミルに暴落してしまい、開拓村はどん底に陥り、その自衛策として組合の設立を見たのであった。

私はそこに七年勤め、その間に宮城県の石巻に教会をもって力行会の支部をつくり、あまたの青年をブラジルに送り出していた色川牧師が定年となり一家をあげて移住して来た。その娘、と言っても、早く夫に死別、一女を抱えて十年、新宿にある二葉保育園に保母をしていたのが父に伴って来り、当アリアンサ(共栄とも言う。結婚指輪をアリアンサと呼ぶ)で移住地の日本語の先生となり、村の様たな行事を共にしているうちに、私と結ばれた。そのとき私は二十五歳、妻三十五歳、連れた娘は十二歳であった。

その以前、村に黄熱病が狙獄を極め、青壮年のみが羅り、老幼と女は擢らず、羅ったら殆どが命を奪われた中で、私は同郷先輩の夫人が不眠不休で看護に当ってくれたので一命 をとりとめたという忘れられぬ一事があっ た。その夫人は九十二歳で健在であったのに、庭を散歩していて、アフリカ蜂に全身を刺されて落命された。何ともロ惜しき限りであった。こうした例は決して少くない。

永住の地と決めたアリアンサ村を八年で去り、サンバウロ市に出た私は、コチヤ産業組合というところに勤め、家内は力行会の先叢の経営する日語学校に勤めた。日支事変が第二次世界大戦へと拡大の一路を辿りつつあるとき、またブラジルには伽排景気の没落で転喚を迫られている時でもあった。

サン・パウロに来て六か月目に力行会の先輩の弓場勇が訪ねて来た。彼は兵庫県の今の西宮市の出身で、中学時代は名投手として名をはせた。代々庄屋の旧家であったが、父が新しい仕事に失敗して、彼の提案で一家をあげて移住をしてきた。


ブラジルに野球をひろめ、野球の神様で通って来たが、大変な理想家で、トルストイに傾倒し武者小路さんにならって同志を糾合して「新しい村」作り、三百人を一家族とした共同体制をつくり、略奪 農で荒客の一路を辿る農地の更生を計り、養鶏産業基地をつくり、今までは大都会の周辺に限られていた養鶏産業を全般にひろげる道を拓き、それが更にコチァ産組の下元専務とタイアップして全伯産業組合青年連盟を結成して組合運動を促進することになり、その仕事の為にどうでもアリアンサに帰れとねばられて遂に根負けして、家内の説得にも一苦労して、またアリアンサ村に舞い戻った。

そして早速、軍動の共体化に入ったが、間もなくブラジルが日本へ宣戦布告、日系人の公的活動は一切禁じられてしまい、その機関とエネルギーはそのまま「新しい村」にふり向けられ、私も一家もその中に入って三百人の一党と寝食労働を共にした。金銭に縁のない徹底した共同生活で、子供達は金銭というものを知らないで過ごした。しかし私にとって甲斐のある運動も家内にとっては、また他の母親たちにとっても、満足のできるものではなかった。それは弓場勇が子供遠に学校教育を許さなかったからである。

彼の言い分は事業がもう少し軌道に乗ったらここに学校を建て立派な先生を招くから中途半端なことをするなというのであったが、子供の教育は一日怠れぱ遂にそれは取返しは出来ないというのが家内の持論であった。それを補うのに家内は隠れるようにして子供達に日本語を教えた。理想家がかく経済をおろそかにするの例にたがわず、急激な小業拡張の無理がたたって遂に債権者の南米銀行が一切を接収する日が来た。

そして立ち退きを命ぜられ、半数はつてそれぞれの伝手で出てゆき、残る半数は近くの農協主の好意でその一隅を借りて生活をはじめた。私は家内の「子供たちは最早ブラジ ル人であるからまずプラジルの普通教育を授 けるべし」の主張に屈して、十に年間の「新しい村」のわが生盾に終止符を打って、同志と拠を分った。そして一応義父の農協に身を 寄せた。

間を置かずロンドリーナから使いが来て、同じ所で幼推園を始めてほしいということであった。それは、終戦後、力行会会長永欄(アリアンサの創設者)が来伯し、国の現 状をつぶさにし、迷わずにブラジルに永住の決意をすることを説き、そのために農村に4 H運動を取り入れるべきであるとして全伯から青年を呼び集め、その講習会を開催したが、その折私の家内が招かれてお手伝いをし、それで知り合ったロンドリーナの人達が早速招きに来てくれたのである。

それに応じて今度は家内が主で私が従で、ロンドリーナに移ったのである。そのとき長男十五歳、長女十四歳、次女十二歳、次男九歳、皆小学校一年から、私も社会人一年生からはじめた。なお私には三女があったが、開拓初期によくあった 殺蟻剤のメリケン粉の誤用で、十三一歳の姪が手伝いに来ていて殺蟻剤でテンプラをつくり、皆、中毒を起したが、二歳の抵抗力のない三女は助からなかったのである。

ロンドリーナで家内は幼碓園、私は首姓が身についているので近くの土地を借りて野菜 づくりから養鶏を、七年目に市街の隣接に猫の額ほどの土地を購い、養鶏を主に過不足のない生き様を続けて来た。家内は健康を害し幼稚園を退いたが、間もなく健康を回復してからは跳で私の百姓を手伝ってくれた。

姉女房だから何時も私の励し役であった。私に似て二人の息子はあまり学問好きではなく、商業を出て商社や銀行に働いてみたが、結局私の百姓を継いで落付いている。これは私の願いでもあった。それぞれに土地を手に入れてブラジルで一番小さな百姓を楽んでいる。

娘二人も家を成し過不足ない生活を楽しんでいる。一九八五年には私と共に日本の叔父叔母、大ぜいのいとこ達とはじめて逢って血縁の喜びをしっかり味わって来た。 アリアンサに二十年、ロンドリーナに三十 七年と、六十年が異郷に過ぎて喜寿という年を迎えてしまった。家内は今から十三年前に 七十五歳でポックリと天に旅立ってしまった が、私との生涯を悔いなきものにしてくれ た。孫も十一人、その一人は去年、花嫁姿を 見せてくれた。

プラジルで大農場をといった私の十八歳の大志は、かけらも実現させ得なかったけれども、これこそ農業国プラジルを形成する基本農家の在り方だなどと自らを納得させて見たりしている。また子らに委せた自分のいわゆる余生の有り方なども、六十、 七十の手習い乍らも、短歌、詩吟、書、俳旬 といったグループの中に在って、日本の庶民文化をこの国に残す翼を担っているという 自負をのぞかせてみたりして、そこから生わ る人間関係を楽しんている。

就中、七十の手 習いで仲間入りした短歌は私のついの心の住 家となるであろう。 生れ出ることからして自らの撰択でないよ うに、一生の歩みも自ら撰んだようで、実は 先に撰ばさせるものが居るようだ。これをい うなれば運命と名づけるか、私の今もつまりは備えられたものを忠実に歩んで来たという外はない。

中でも人との出合い、良き人と の出合いこそ最大の賜ものである。今その出 合いの人々を指折って感謝の念を新たにする のである。プラジルに移り住むようになった動機の積る重なりを思い、移民「私」の六十年の歳月の移り変りを顧りみて、単なる自分の努力だけでは尽し得ない大いなる「力」に泌たと思いを致す今目此頃である。因みに「新しい村」弓場農場は今日も尚、初志を貫いて継続している。

創始者弓場町は 自動車旺故で十二年前、七十歳で亡くなった が、同志はその息子を立てて、人数は百人余 となっているが、文字通り百人一家の生活を している。「祈りつつ働きつつ芸術する」を モットーに、それぞれ様々な道に励んでいるが、弓場パレェはフラジルの幾多の祭典に招かれ、11本へも招かれて各地で公演をして好 評であった。この存在は世界でも特異と言っ ていいだろう。日本から一度訪れて共鳴し、改めてここに移り住む人も多い。かつては賀川豊彦、中野好夫、大宅壮二檀一雄、北社夫などもしぱらく滞在して行った。

自分達グループのユートビアを楽しむというよりは農村に文化を、また地方農産業の振興の基地として、その地方に適した産業を指導拡大する ことに大きな只献をしており、農場はその見本でもある。アリアンサ村を創始した日本力行会(今ロも練馬区小竹町にあり)会長永田欄は移住の理念として「コーヒーより人を創 れ」を残し、今日もこれはブラジル移民の中に生きている。その生きた標本が・フラジルの 「新しい村」弓場農場とも云えょう。私もそ の中に十五年間生きられたことは大変な人生 のプラスと思っている。(在ブラジル)