盲信とは、その人の観念界の範疇にあり、自己盲信等わざわざ云うまでもなく、すべて自分の中にあること。他を責め裁くものとは何等関連のない世界のものである。盲信させられたという言葉は成立たない。他にあるでなし自分にあるということ。信じられないはずのものを信ずるところから起こる自己信仰、自分さえも信じられない筈の自分が他を信じ、或いは又自分の上にでっちあげた観念を固く信じもつ、放そうとしない観念固持、我執のとりこ、自分を自分で重囲にとらへ閉じ込め自由を縛る苦しさ、束縛はすべて自分の中なる観念によってなされるものであり、他から縛られる何物もないはず。その重囲から脱出し、解放するには自分の内なる観念の殻を自分で脱する以外に道はないと思う。現象で拘束、重囲の中にあって、尚且つ縛られない心の世界。現象界における身体の縛りは身体の病に発展し心の病を必ずしも併発するものでない。しかし、自分を自分で縛る自分を信じその観念を放さない我執は心の病を即発し、身体をも傷つけるものである。病気は必ず即座に身体の異和を誘発し生きる力を消耗、減殺し、調正回復機能を妨害し益々健康を害していくものである。これも理論、これによって理論を検べる。
此の世には観念でどう思おうと、例えば正しいと思い、或いは間違いだと思っても、本当は正しい場合もあり、又は本当に間違っている場合もあり、観念と正しさと相反することも多々あるであろう。真に正しいものを正しいと正しく観た場合であっても、真に正しく観ていると思う信念は、その信念そのものに危なさがあるのでなかろうか。
盲信でない盲信でないと思うのは観念界のことで、正しくないかも判らない。正しいとか間違いとか決めつけられない自分であるという事を自覚する観念。その観念の上に立って、自分を観、他を観察する自分になるところに我執のない自分を発見する。
自分の考えは正しいか正しくないか分からない自分であり、又他の観念も正しいか正しくないか判らないとする自分になることから出発する。
即ち自分の観念は信じることが出来ないもの。
他も信じることが出来ないもの。
そこに終わって始めて盲信も我執も発生の余地を残さないものである。
如何に正しくとも自分の考えも正しいと信じられない自分、決めつけられない自分、自分の考えで正しいか正しくないか正確な判定を下し得ない自分。世界中の人が過去幾千年、正しい観念といわれていても正しいと決めつけられない自分、信じない自分。正しいか正しくないか分からない自分ではなかろうか。
聖人、君子、大学者がこれが絶対間違いないと示し教えようとしてきた観念も果たしてそうかどうか正しいと判定出来ない。信じられない自分、それが盲信でない、我執の起こらない自分になり切れるものではないだろうか。
信ずるところから我執が起こり、剛信になれば益々剛我執になってくるもの、頑として融かそうとしない固い自己宗教に自分で隠し入るものである。それから来る他を相容れないもの。これこそ自分を害し、他を毒する根源をなすものではないだろうか。
すべて自分の観念は正しいか正しくないか分からないとするもの。自分の考えで判断して納得しようとするものは、判断の出来ない目盛りのない寒暖計で温度を測定しようとする類のもの。観念としてのその人は何十度何百度あると思っても、温度計の目盛りなしでどうしてそれが出来よう。
絶対に出来得ないものをなそうとする愚。その繰り返し、現象界の温度計は目盛りがつけられても、人間の自分の観念に正確な目盛りが果たしてつけられるものであろうか。きめつけられるものであろうか。
聞いて分かる、見て分かる、自分の考えで出来ると思うことをやろうとするのは、自分の考えは正しいとする、自己盲信に頼るもの。それなれば問題でないが、自分の考えで絶対に出来ないことをやれといわれた時に当たって、それを出来ないと判定するのは自己盲信から来るものである。出来るか出来ないか判らない。
千貫の石を持ち上げろといわれた時に、太平洋を一っ飛びに跳び越えろと云われた場合も、最も醜悪な異性から情交を迫られた場合でも、それが自分で出来ないと思うことは物事を正しく判定出来る自分であると思い上がりの自己盲信から来るものだと思う。
まずそう云う行為が正しいか正しくないか分からないとする自分になり切ること。いけない出来ないなどと判断するもとなる判断出来る自分である、傲慢な自己盲信患者、自信我執を立て通そうとする観念、その瞬間抹殺すべきではなかろうか。
出来ると思うことをやろうと思うのも自己盲信であり、自己判断出来るとする、自己盲信から来るものであり、自分で出来ると確信した事でも必ずしもすべてそうなるものであろうか。それ程自分の確信は確実なものであっただろうか、あるであろうか、どんな事でも出来るか出来ないか分からない自分に先ずなること。正確な判断の出来ない自分であることが本当ではなかろうか。
では何でもやっていいものだろうか。自分は分からないからとて他の言いなりに云う事を信じ行ってもいいものだろうか。
そこでもし他を信じたとするなれば、信じさせたものがあったから信じたと言い得る何ものがあるであろうか。
他が如何に信じることを強弁強要するとしても、信ずる信じないは自分にあって、信じられないのは本当でなかろうか。信じたと思うなれば、それはまさ,正しく信じられないものを信じた自己盲信の危さと思いかえさなくてもいいものだろうか。
即ち自分も信じられない、又他をも絶対信じることの出来ない、その境地に立つことであって他の云うがままに信じて行うことも自己盲信の最たるものだと思う。
信じて盲従し行うなれば危険極まりなし。
共された一杯の粥をすするにも、一ヶの杯を受けるにあたっても果たしてその供された意図が奈辺にあるや、正しく当たらないであろう自分の推定できめつけることは危険極まりないことだと思う。又相手にその意図を正しさとしても果たしてそれがどの程度のものであろうか、どういう種類のものであろうか察するに難く、その人の意図とその表現が恐らく正しく一致するものではなかろう。
言葉と腹の正反対のことも往々にあり得ることで、善意悪意等は別としても、何人も正確な表現することは不可能だろうし、まして受け方に於いても正確に通じるものでないことは当然であろう。ここに於いて他を批評し批判し、批難難詰し得ない自分を発見する。他に表現する危なさを痛感する。
では自分の考えにも他の言行にも信じられない盲信者になれない自分、我執のない、判断の出来ない自分。
正しいか正しくないか分からない自分は、他の言動にも盲信、盲従しない自分であるから、一体どうしたらいいんだろうか。自分の思うことも人の云うことも信じられない自分、盲信我執から脱皮した自分は一体どうしたらいいんだろうか。絶対に出来ない、無理だと思うことをやれと云われた時に先ずその人の言葉の奥の真意を正しく汲み取ることの出来ない自分への自覚。どういう心を以てこういうことを云うのか、それは恐らく掴み得ないであろう。