28 junho 2009

domingão na casa de yuri&luis




sabendo da nossa viagem para japão, yuri nos convida para um repeteco de almoço na casa deles em souzas. e eu na correria (hum... se for ver bem, a correria só na cabeça) da véspera da viagem ainda incerta por causa do visto, passagem e coisas da fazenda, num tava no clima para ficar saindo assim... queria ficar um pouco recluso, botando as tranqueira acumuladas, (as materiais, tinha pensado inicialmente) botar em ordem, esvaziar gavetas...
bão..., enfim foi uma tarde agradabilíssima, botamos as conversas em dia, luis nos contando a sua trajetória profissional+existencial nas prefeituras de campinas com toninho, depois em são paulo com a marta, e agora na petrus, num acreditei ele falando das coisas que ele enfrenta no meido dos peso pesados do pib brasileiro, caramba, e me parece que ele tira de letra essa situação! e yuri contando das aventuras artesanais ora pro nobis, o como funciona para ele a fé religiosa "inconvicta" no candomblé, que ele assume como uma fé utilitarista( ? ...humm, interessante ele dar esse nome na modalidade de fé... ), os planos habitacionais dos dois, a morte rencentede um dos labradores (lindos e dóceis, eram 5, agora 4) , a neurociência+féreligiosa, mil coisas e o papo cabeça rolou solta, ah, e fico sabendo que wall foi convidada mas..
.... continua....

27 junho 2009

キブツ カブリの変貌

月刊緑健文化  日本共同体協会
1997年5月15日 

  キブツカブリの変貌  
    かつてキブツカブリに滞在し た日本の友人たちへ (Rony Frost)

    かつてキブツは、共同一体をモットーに創設されました。キブツ創設の時代、イスラエルの一般社会と同 様、キブツの生活水準は低く、私達はわずかな物を分け合って生活していました。キブツメンバーの生活は常に他のメンバーたちと一緒で、夜 には、食堂や労働調整室、総会、パーテイなどで皆が顔を合わせていました。それが、あなたがた日本人グツープが私達のキブツをを訪れ た70年代前半のキブツの姿でもありました。
    年月と共に私たちの生活水準は向上しました。テレビ、電話、パソコンなどが各家庭に導入され、一般しゃかいの物質優先の風潮が私 達の生活に入り込み、理念が次第に壊れていったのです。
    イスラエル経済は、80年代にの半ばに危機にみまわれました。それはインフレ、金X政策の不備、株の暴落といった形で国家全体を襲い、キブツの負積もまた、増加しました。この時期、イスラエル経済は大打撃を受け、中小、儒細企業の多くは破産しました。キブツは何とか生き延びたものの、キブツの財政もまた、急激に悪化したのです。
    キブツはこれらの影響を受けながら大きく変貌しました。

    労働分野の変化
    かつてキブツのメンバーは、メンバーの個人的希望よりも、共同体全体の要請を優先させ、キブツが最も必要とする仕事場で働いていました。
    もし事務職や教師が足りないのならば、総会の総意に基づいて特定の個人にその仕事に就くことを要請する原則もありました。あるいは総会などの場において、メンバー同士が話し合い、ある人にその仕事を受け入れてもらおうように説得する、といったことも行われていま した。
    年月と共に、そうした原則も変わりました。今日では、全体よりも個人の意志や希望を優先するという傾向が強まっています。それによって、人々は前向きになり、自分自身を成長させ、満ち足りたきもちを持つことができるというのです。
    それはそれで良いことです。けれども、そうした個人の考えが浸透することによって、いくつもの代償を支払わねばなりませんでした。
    共同体を維持する上で必要な仕事に誰ひとり関わろうとしない、といった事態が生まれてくるのです。
    今日では、多くのメンバーが外での楽しげな仕事を探してます。そのために、キブツ内での地道な仕事を担うメンバーの数が足りなくなるのです。
具体的に見れば、バナナやアボカドの畑で働く人や、食堂の責任者を引き受けようとするメンバーが減少しつつあります。
    どうしたらいいのでしょうか?
    キブツは単純労働、重労働、そして責任を求められる役職にも、外部から賃金労働者を雇い入れることになったのです。
    かつて、私達キブツカブリの誇りは、雇用労働者に頼らないということでした。あくまでも自分達の労働によって生活してるのであって、決して他者を搾取しないということでした。
    キブツのこの思想には、歴史的意味があります。
    かつてヨーロッパの各地で、ユダヤ人は嫌われていました。それわ一つに、ユダヤ人の担う仕事にようものでした。
    当時はどこの国でも、下層階級は農民が占めていました。その上に工場労働者がいて、商人や金x機関、知的職業についてる人々は少数派でした。
ユダヤ人は特に、商人や金X業についてることが多かったために、一般の人々からは嫌われていました。
    パレスチナの地にやってきたシオニシトたちは語ったものです。「新しい国を作ったら、自分達は大地に足をつけて、自らの手足で働いて生きていくのだ」と。
    しかし今日、その思想は忘れられようとしてます。私達にはもう、大地の上に生きることが大切なのだという思想はありません。
    現在、キブツの中である仕事に適したメンバーが見つからない場合、実に簡単に、外部から人を雇ってしまいます。
    キブツの外で働いているキブウツメンバーが果たして充分高額な給与をキブツに持ち帰るでしょうか。そういう人もいますが、薄給の人もいるわけです。ある人の給与が薄給で、街で独立した生計を営むことは困難であっても、キブツにいる限り、家族が食事に困ることはないし、子供たち はきちんとした教育を受けることができます。
    「カラビン」(カブリ経営の工場)は、かってメンバーだけで労働力を賄ってきた、まさに我がキブツが誇りとする工場でした。
    いかし今日では、カラビン労働者の90%が外からの雇用労働者で、カブリのメンバーはほんの少ししか働いていません。世の中の経済事情により製品の注文が減り、工場経営はX地に降りました。辛うじて経営が成り立っている状態です。
    景気が悪くなったとき、工場の責任者は、まず古くからのメンバーに伝えました。「もうあなた達に働いてもらなわくても構いません」
    こうしたことを彼らに伝えるのは辛いことです。
    そして更に、一般のメンバーにも次のように伝えました。「あなた達に働いてもらいたくありません」と。
    何故でしょうか?
    それは雇用労働者に比べて、キブツメンバーの姿勢に甘えがあったからです。
    夜中のシフトはいや、重労働もいや。それに昼間から自分の用事のために職場を離れる人達がいたりしたのです。例えば幼稚園に自分の子供の様子を見にいくとか、診療所に行ったりとか、その生き返りにちょっと、自宅に寄ったりとかいった具合です。
    雇用労働者の場合は、こんの問題は起こしません。もしも彼らがそんなことをしたら、自分が解任されることを知っているからです。
    カブリの場合、雇用労働者のほとんどがロシアからの移民です。それは低賃金での雇用が可能だからです。
    こうして年月の経過と共に、工場の経営側と雇用されている単純労働者との間の階級差も生まれました。
    雇用労働者が多くなるにつれて、失われれいくものも多くなります。   
    ここは自分達のキブツであるという気持ち、自分達の手足でキブツを支えているのだという気持ちは薄れ、共同体における連帯感も少なくなっていきます。
    一般に雇用労働者が8時間以上働くと、残業手当がつきます。そうすると、メンバーのなかには、「彼らは残業手当をもらっているのに、どうして自分はもらえ ないのか」という声も生まれ、残業手当を要求するメンバーが出てきたりもします。
    かつてキブツにおいては、私たちは必要があれば今よりももっと働いていました。そしてそれは、自分個人の利益を得るためではなく、キブツ全体の工場のため でした。多くのメンバーが、キブツイコール自分自身だと感じていたものです。
    今日ではそのような意識をもって仕事をしているひとはほとんどいません。自分と自分の家族のことを優先させてものごとを考える人たちが増えてきているので す。
    カブリでは今日、各部門の独立と自立を促しています。ある部門の赤字を別な部門の黒字で補うのでなく、各部門がけっして赤字を出さないように稼がなければ ならないのです。
    かつてのキブツでは、各部門の責任者、会計職、労働調整係りなどの仕事は、数年ごとに担当者が代わっていました。
    これは、より多くのメンバーが共同体に対する責任感を共有するためのシステムでした。
    現在でも基本的には、このローテーション・システムで運営されてます。
    けれども、専門知識や専門技術を要する分野では、かんたんに人を交換することができないために、人事の固定化の傾向が生まれています。
    私は学校の教師ですので、長い休みに入ると、当然労働時間が減ります。そこで私は何か仕事があればよいと思い、探すのですが、なかなか適当な仕事が見つか りません。
    まず、わたしが何かの仕事についたとしても、私がその仕事に慣れていくあいだに学校の休みは終わってしまいます。ですから、あえて私のような短期間しか働 くことのない人に仕事を覚えてもらう必要がありません。
    それに各部門で雇用労働者が増えた結果として、私がどこかの仕事につけば、その期間は誰かの労働力が不要となります。私のたった二週間の労働のために外か ら雇っている人を解雇するわけにいかないでしょう!
    以上の労働に関する変化は、どこのキブツでも起こっています。その変化はキブツごとに違いますが、方向性は同じです。
    また、キブツメンバー間に収入差のあるキブツもぼつぼつ出始めています。
    カブリではまだそれほども大きな問題となっていないものの、やがてそうなるのも時間の問題という気もします。
    私はそうなってほしくありません。キブツの集団生活の中で、給与に格差が生じるのは健全ではないからです。   

   教育分野の変化
    カブリでは、1985年に、それまでの「子供の家」における共同就寝制度が廃止され、各家庭の両親の元で眠る制度に替わりました。
    1985年までは、子供たちは夜も「子供の家」の寝室で寝ていました。子供達が親の家で過ごすのは、夕方の4時半から7時までの、2時間半ほどで、それ以 外の時間は仲間とずっと一緒でした。子供達がまだ小さなうちは、毎晩どの親も子供につきそって「子供の家」に行き、枕元でお話をしたり歌をうたったりし て、おやすみを言ったものです。
    かつて、キブツ独特のこのような共同保育は評価されていました。この制度の元で育ったメンバーの中には、今でもあのころを懐かしむ人たちもいます。けれど も中には、辛い思い出しか残っていないメンバーもいます。おそらく夜中の恐怖心や集団生活になじめなかった子供たちとその親なのでしょう。
    私は18歳から20歳まで軍隊に行き、その後カブリを離れ、15年間街に住んでいました。しかし、1985年に一児の母親としては、我が子と一つの屋根の 下で寝られるのは嬉しいことです。
    カブリの子供達が各家庭で寝るようになってから10年が経ちます。
    この間、有形無形の変化や波紋が生じてきていることは確かなことです。
    また、このような制度の変化に伴い、保育内容の一つ一つが次第に共同から個人家庭へと移行しつつあります。子供の食事についても衣類についても、家庭の責 任が大きくなっています。子供が病気になった場合の看護も、保母ではなく母親が当たるようになってきています。
    これらの変化は、キブツにおける家庭の役割を大きなものに変えました。特にキブツにおける女性の役割や活動に大きな影響を与えました。
    女性たちは夜、幼い子供たちを家に残して外に出ることをしなくなりました。その結果として、主として夜の時間帯に行われる各種の文化活動や総会に出かける 女性が減りました。
    そうして自然に、メンバー同士が顔を合わせる機会も減りました。カブリでは夕食もまた、各家庭で取るようになりましたので、食堂へ足を運ぶメンバーも減り ました。
    カブリの学校は長い間、カブリに住む子供たちのためのものでした。
    それは小さな学校でした。私たちの学年は17名ほどでした。生まれてから18歳になるまで、私はその集団で育ちました。その中で私たちは一般の学科教育だ けでなく、労働の意義や共同体の価値についての学習も重ねてきました。
    今日、かぶりの学校はすっかり変わりました。カブリの子供たちだけでなく、周辺のキブツの子供たち、街の子供たちも通ってくるとても大きな学校になったの です。
    私は現在の新しい学校には数多くの利点もあると思っています。教師と生徒の密接な関係を尊重した「こじんまりした学校」の利点と、数多くの子供達が交流 し、子供たちに多くの選択肢を与えることのできる「幅広い大きな学校」の利点の両方を失わないよう、常により良い方法を模索し、試行錯誤を繰り返しなが ら、努力してます。
    クラス担任の役割は難しく大変です。しかし私は全体として言えば、現在のカブリの学校に満足しています。

   食生活分野の変化
    最近のメンバー投票で、 カブリの食事の在り方も変わりました。
    食費を各個人に分配し、個人に支給された予算の中から、おのおのが食事のたびにカードで食事代を払っていくというシステムが導入されたのです。
    この制度に賛成した人達は、このようにすれば、残飯を少なくすることが出来、無駄が省かれ分、毎食の献立を豊かにすることが出来ると出張しました。また、 好ましいとこだと言えないが、やむを得ないことで、少しずつ慣れていくしかないとも出張しました。
    私の家族は、この食堂改革案に全員反対しました。特に創設世代である私の父にはとても受け入れることが出来ない内容で、この決定は父親の精神状態にまで影 響しているようです。
    投票で破れた私たち反対派は、キブツの食堂は単に食事をするだけのための場所ではないと出張しました。食堂はメンバーたちが顔を合わせ、交流する共同生活 にとっての大切な場所なのです。
    また先月の総会では、食堂での夕食提供そのものが打ち切りになりました。多くの人たちが家庭で夕食を取るようになっていたため、夜の食堂はコーヒーを出す クラブとすることになったのです。
  
   総会の変化
    かつては、金曜日の夜に食堂で開催される総会に多くの人々が出席していました。
    食堂が満席に近かった総会を私は覚えています。それぞれに決まった席があり、いつも友人のそばに座り、おしゃべりしたり、笑ったり、人の意見に耳を傾けた り、討議に参加したりしたものです。
    しかし年月と共に総会に出席する人々の数は減っていきました。これもまた、カブリだけでなく、多くのキブツに共通する現象でした。
    同士的意識の薄れ、無関心、テレビの導入、子供の自宅就寝など、いくつもの理由があげらています。
    現在のカブリでは、平均して30名ほどのメンバーしか総会に出席してません。そのために場所も食堂からクラブハウスに変わりました。
    総会の模様は有線テレビを通して各家庭に放映されます。
    例えば数ヶ月前の総会では、バナナ畑での重労働にタイ人労働者を雇うかかどうかが議題でした。ほんのわずかな出席者が、このような大事な議題を決定してし ますのです。
    全員参加による直接民主主義は、キブツの原則の一つでしたが、今日はすでに、たいした意味のない形だけのものとなっています。
  
   総会の変化
    所有と消費の分野でも、個人の自由を認める領域はどんどん広がっています。ここでは一、二例をあげてみます。
    メンバーが私的に使用する乗用車の運用はこれまだ、すべて運輸係りの手に委ねられてきました。メンバーが車の利用を希望すると、係りが調整を行い、手配し ていました。各メンバーは、各人の個人予算の中から、走行時間と距離により、経費を払うというシステムです。つまり車のような大きなものは、キブツの共同 所有になっていました。
    この原則は今でも廃止されたわけではありません。ところが最近の総会で、個人的に車を購入することのできるメンーバーは、自家用車を所有しても良い、とい うことになったのです。
    メンバーがキブツから支給される予算の範囲では、とても車を買うことなどできません。車を購入し、かつ燃料および維持費を捻出できるということは、キブツ 以外からの収入があることを意味しています。
    海外旅行についても同様のことが言えます。かつて海外旅行はキブツが経費を負担し、順番に出かけていく、ということになっていました。
    けれども今日は、個人が旅費を調達し、希望すれば、いつでも旅行に出かけることが可能です。以前とは異なり今日では、あなたのその旅費をどこからどうやっ て調達したのかなどと訪ねられることもありません。

   カブリの新しい動き
    3年前、食費の個人配分問題が持ち上がったとき、古いメンバーの一人が次のような出張をしました。
    「キブツが変わっていくことはやむを得ないことだ。けれども、何か問題が出てくるとそれを改革し、次にまた問題が出てくると今度はそれに取りかかる、とい うようなその場その場の対応は望ましくない。私たちの生活すべてをもう一度すべて見直したらどうだろう。私たちは何に満足し、何に不満なのか。改革の価値 は何であり、何を改革したいのか」
    1995年3月、「リーダーチーム」というメンバーの集まりが作られました。
    彼らは外部からカウンセラーを招き、その助けをかりながら議論を重ねました。
    今、自分たちは何を信じ、どのような生活を望んでいるのかについて、話し合いを続けたのです。
    その結果、第一段階として、「私たちは今後も集団生活を継続していきたい」という総意が表明しました。
    現在は第2段階問題を検討中です。
    1.キブツの組織に関する提言。
    2.労働と生計について。
    3.消費について。
    「1」のキブツの組織に関する提言の中では、一番大きな変革は「総会の廃止」です。
    現在のところ、メンバー全員には投票権があります。けれども、先に言いましたように、実際には投票権を行使しない人たちの方が圧倒的に増えてます。
    そこでこれまでの直接民主制に変わり、彼らに決定権を預けるという改革案が生まれました。この改革案の焦点は、直接民主制を諦める、という点にあります。
  
    社会や国家、そして世界も常に変化しています。キブツもまた、例外ではあ得りません。もそもキブツが変革を受け入れず、かたくなに過去に固執していれば、 死んだも同然の社会となっていくことでしょう。
    私は保守的な性格ですから、これらの変革を好みませんし、ついていけないと思うとこともあります。けれども変わらざるを得ないのがキブツの現実であり、私 はそれを受け入れるよりはありません。ただ私は、できるだけ良い方法で変化していき、共同体としての生活が続いていくことを説に望んでいます。

55 voltas ao redor do sol....


mes de junho, todo ano é a mesma cena. eu e o shin fazemos anivesário, eu no dia 22 e ele no dia 26.


sob o olhar condescelente das respecivas, o corte do bolo de mãos dadas, ..."corta bolo juntoooo!!!"... o bolo é de "dekopon", feito pela hiroe, estava uma delícia!!

18 junho 2009

japão, baurú e bia&fabis&marcio&lú

pronto! resolvido! vou pro japão! ...ou "vamos", pois vou antes, a ines "diz" que vai depois. bem, essa idéia já vinha matutando há algum tempo. vou ficar por 3 meses? 6 meses? 1 ano? num sei, depende, ainda indefinido, mas que luxo, poder sair sem tempo definido para voltar... ok, agora começou a correria atrás de papelada, passaporte que está vencido, o visto, a passagem, é... a última vez que estive lá foi em 2003 por 3 meses. a renovação de passaporte, consegui agendar na policia federal em baurú. saí de manhã cedinho, aquele friozinho, com o mapa do google impresso no banco do lado, cheguei uma hora antes. bem na hora que começo subir a escadaria da entrada, ouço uma voz : alam !!! caramba, superhiperultratransurpresa! era a bia!. ela fazendo a caminhada matinal. ai, ai, fiquei até sem jeito, pois nem tinha avisado que iria para baurú, a intenção era o passaporte, mais nada. mas então, depois da burocracia federal, almocei na casa deles, botamos as conversas a respeito dos nossos respectivos filhos, dos amigos em comum, e tudo mais que temos direito em dia, conheci o sitio que adquiriram há 8 meses, encontrei a lú e o marcio. caçamba, fiquei pensando, olha aí, aparece desse jeito, onde eu dô importância, as minha prioridades internas... qual posição ocupam os amigos aqui denttttro de mim?


eu e a luciane que carrega a alegria que só ela tem... vi no carro dela o nome dela adesivado em vogais "katakana": ルシアネ , diz que pesquisou na internete, imprimiu e ela mesmo recortou. ok, vi como fica em ideograma "kanji": 流詩亜音. traduzindo esses ideogramas ficaria algo assim: "o som da correnteza da poesia". humm.... que tal lú, ficou bunito, eu gostei!!




finalmente conheço a "mutchodita" fábrica do fabis, tantas e tantas histórias eu não ouvi nas rodas de conversa nas escolasdekensan, nos concentrados.... ele mesmo diz que não vê o dia que ele vai vender, desfazer, largar e dedicar o tempo para cuidar dos coqueiros que tem no sítio, mas sei não.... eu vejo diferente. a fábrica para ele, é o ganha pão, o sonho realizado, a motivação da vida, o desespero, o fardo, o brinquedo, o suor, enfim é "o fabiskarma", melhor ainda, é o "fabisca", entenderam?, êta, piadinha infâmea... mas o que queria dizer mesmo é que pra mim, sem a fábrica, o fabis não é o fabis...



e vejam só, mesmo com este ilustre visita, o fabis não parava com os telefonemas dele. claro, ele é o chefe do setor financeiro, chefe do setor de produção, chefe do despacho, chefe do conselho administrativo, chefe do setor de informática, chefe do setor do pessoal, chefe de vendas, enfim, chefe dele mesmo.... ah , e ainda que agora tem a lú que trabalha no escritório, já senti o clima aqui, perigas de fabis deixar ser "o chefão". ti cuidaí, fabis!!



e claro, e bia&fabis não iam deixar de me dar de presente 5 pacotes da deliciosa e famosíssima passoca "Minduito", e eu nunca que ia recusar. e peraí, ia esquecendo, notem a esbeltura da silhueta do moço... quentiviuquentivê. sim, amigos, ó pra nóishumano, hay esperança sim senhor!!!

11 junho 2009

Baruch Spinoza por Claudio Ulpiano

parte 01
http://www.youtube.com/watch?v=KMhuVkSDQPs


parte 02
http://www.youtube.com/watch?v=6cLbiVna81A

deus, fadas e duendes

a presença de evidência
faz lucubrar além da evidência
e no entanto a ausência de evidência
não significa
evidência de ausência
evidência não é
nada mais do que evidência

07 junho 2009

O Físico e a Pororoca

by José Colucci Jr..
É notória a má-vontade dos especialistas para com os jornalistas que se encarregam da divulgação científica. É comum rotularem-se de superficiais as matérias sobre ciência e tecnologia, e de inconseqüentes as sobre medicina e saúde. O que dizer, no entanto, de matéria como a que publicou A Folha de S.Paulo (8/2/01) sobre a homeopatia? A repórter que a assina usou dados da associação máxima da especialidade, consultou profissionais credenciados e ouviu o relato de empresas e pacientes em apoio à homeopatia. O que faz o leitor crítico diante desta e de muitas outras reportagens sobre a medicina dita alternativa? É fácil acusar de levianas matérias que divulguem terapias obscurantistas e carentes de valor científico, mas o que dizer da que promove uma especialidade médica que tem a benção do Conselho Federal de Medicina e da Associação Médica Brasileira, é utilizada na rede pública, conta com 15 mil profissionais cadastrados no país e ganha adeptos a cada dia?

Pedir que a imprensa seja mais responsável do que as duas entidades oficiais citadas seria ingênuo, mas não descabido. Quando os interesses mercadológicos de uma categoria falam mais alto do que o interesse público, a imprensa deveria ser a primeira denunciá-los porque só interesses mercadológicos explicam o reconhecimento oficial da homeopatia. Se a homeopatia estiver certa, e existir no universo um princípio cujo efeito seja maior quanto mais diluído esteja, estão erradas a química, a física e a medicina modernas. No resto deste artigo, convido o leitor que não esteja disposto a abandonar as conquistas do pensamento científico a considerar as bases físicas da homeopatia.

O Físico e a Homeopatia
Em minha juventude tive a felicidade de conviver com Mário Schenberg, o grande astrofísico brasileiro. Num daqueles dias, surpreendi-o, de pijama e chinelos, na cozinha de sua casa na Avenida Dr. Arnaldo, em São Paulo, a separar, contar e colocar com todo o cuidado debaixo da língua vinte e tantos glóbulos brancos de um remédio homeopático. Tentei mostrar-lhe a incoerência: ele, um cientista famoso, utilizando-se de um método terapêutico para o qual não há qualquer comprovação científica. Falei das diluições extremas, da constante de Avogadro, da impossibilidade estatística de existir naquele produto uma molécula sequer do princípio ativo, e, em pouco tempo, lá estava eu, na petulância de meus vinte e poucos anos, a dar lições de química elementar ao homem que desenvolveu, com Chandrasekhar, o modelo estelar com núcleo isotérmico. Sempre bondoso, Mário não se aborreceu com a insolência. Disse apenas que se eu pretendia aplicar o método científico deveria antes inteirar-me de suas limitações, pois o método científico testa a validade da hipótese e mais nada. Não revela se a hipótese a ser testada é a única possível, ou sequer se é razoável. Para formular hipóteses é preciso imaginação, pois fazer ciência é um ato criativo. Minha hipótese, Mário esclareceu, era a de que o efeito terapêutico devia-se ao princípio ativo. Sob esse ângulo o raciocínio era perfeito: sem a presença do princípio ativo o remédio não funcionaria. O que eu não considerava era que o efeito terapêutico poderia dar-se através de outro fenômeno qualquer, por exemplo, pela modificação da estrutura molecular do solvente por ação do soluto.

Segundo essa hipótese alternativa, o solvente água ou álcool transformar-se-ía pelo simples contato com as moléculas do princípio ativo, e a eficácia do remédio não dependeria mais da presença daquelas moléculas. Mário disse essas coisas com um sorriso maroto nos lábios, o que, na época, imaginei dever-se ao prazer de confundir a cabeça do moleque impertinente. Hoje sei que não, mas essa é outra história [Mário Schenberg comprazia-se em questionar verdades aceitas e estabelecidas. Tinha sempre um ponto de vista original a contribuir. Toda e qualquer discussão era para ele um laboratório onde idéias eram ensaiadas e, então, descartadas ou selecionadas para futuro exame, conforme seu potencial. O fascínio de Mário pela arte e filosofia orientais e a ênfase que colocava na intuição como instrumento para o conhecimento foram usados como licença para atribuir-lhe uma vocação mística bem maior do que a que verdadeiramente tinha. Se tinha afinidade com alguma religião, era com o Budismo, uma religião sem Deus. Por razões que são fáceis de entender, o fato de Mário ter sido um dos primeiros a divulgar no Brasil Fritjof Capra e seu The Tao of Physics ganha mais ênfase entre os muitos que o conheceram superficialmente do que suas contribuições teóricas para a teoria dos dielétricos, teoria da ionização e da radiação de Cernkob, teoria clássica e quântica dos campos, relatividade geral, mecânica clássica e raios cósmicos].

Aprendi, graças a minha impertinência, que o método científico ou, mais propriamente, o indutivo também tem suas limitações. Tivesse eu, além da impertinência, um pouco mais de espírito crítico, teria percebido a falácia da hipótese alternativa sugerida por Mário. Teria usado Popper, recém-estudado no curso de pós-graduação, para contra-argumentar. Sendo como era, aceitei o argumento da autoridade. Se vinha de Mário Schenberg, tinha de estar correto. Meu único consolo é encontrar-me em boa companhia. A suspensão da razão crítica com relação a correntes filosóficas místicas, terapias alternativas, pseudociência, fenômenos paranormais e dogmas religiosos tem afetado gente melhor e mais preparada do que eu. Com o presente artigo procuro retificar um tanto tardiamente, reconheço aquela omissão da juventude.

Hahnemann, Pai da Homeopatia
Christian Friedrich Samuel Hahnemann (1755-1843), o criador da doutrina homeopática, foi um grande médico. Quando começou a formular os princípios da homeopatia (do grego homeo, semelhante, e pathos, sofrimento ou doença), em fins do século 18, o horror que nutria pela medicina tradicional de seu tempo era justificado. Entre os recursos médicos da época contavam-se a aplicação de sanguessugas, os enteroclismas (lavagens intestinais), as sangrias, a administração maciça de drogas perigosas e outros métodos invasivos que geralmente faziam mais mal do que bem. Hipócrates foi a inspiração de Hahnemann para a lei dos semelhantes. Disse ele: "Há doenças que são tratadas pelo similar, outras pelo contrário. Tudo depende da natureza da doença". A noção de que a maioria das doenças pode ser curada pelos mesmos agentes que a causam também é encontrada na medicina chinesa. Se a cura do semelhante pelo semelhante prenunciava-se em Hipócrates, em Paracelso ela era explícita. Foi ele o autor da frase similia similibus curantur, erroneamente atribuída a Hahnemann. Como Hahnemann conhecia perfeitamente o latim e o grego antigo, podemos crer que bebeu de primeira mão dessas fontes clássicas, embora haja quem discorde.

Partindo de observações feitas a partir do uso do extrato de quinino, que, usado em pessoas sadias, parecia produzir os mesmos sintomas da doença que era usado para tratar a malária chamada então de febre dos pântanos , Hahnemann formulou o primeiro axioma da homeopatia, conhecido como Lei dos Semelhantes. Outros dois axiomas da homeopatia são a Lei do Remédio Único, que estabelece que o remédio mais eficaz é a substância pura que produza os mesmos efeitos da doença a combater, aplicada em dose única; e a Lei da Dose Mínima, ou dos Infinitesimais, que diz respeito à diluição do princípio ativo, o famoso e controverso princípio do "quanto mais diluído mais forte".

Sem Paralelo
A diluição, chamada em homeopatia de potencialização ou dinamização envolve uma seqüência progressiva de diluição e agitação rítmica, a chamada sucussão. A primeira diluição é obtida adicionando-se uma parte do princípio ativo a nove partes de solvente, geralmente água ou álcool. Faz-se em seguida a sucussão percutindo-se ritmicamente o frasco com a solução contra um anteparo, geralmente uma tira de couro. A potência da solução obtida é de 1DH na escala decimal hahnemanniana, ou seja, uma parte em dez. Para obter-se a potência 2DH, no mesmo sistema decimal, mistura-se uma parte da solução anterior em nove de água, o que resulta em solução com uma parte de soluto em 100 (1 seguido de dois zeros) de solvente. Similarmente, obtém-se as potências seguintes, de 3DH até diluições extremas como 30DH, ou seja, 1/1030, uma parte de soluto em volume de solvente representado pelo número um seguido de trinta zeros.

Embora as diluições mais usadas estejam entre 6DH e 30DH, a coisa não pára por aí há diluições ainda maiores. Além da escala decimal, representada por DH, existem outras. A escala centesimal hahnemanniana, por exemplo, representada por CH, é bastante usada. Na escala centesimal, uma solução 1CH é 1/100, 2CH é 1/10.000, 3CH é 1/1.000.000, e assim por diante. São comercializados remédios homeopáticos que vão até 200CH, ou 1/100200. Diluições tão altas escapam à compreensão, por não terem paralelo em nossa experiência comum. Os exemplos das seções seguintes talvez ajudem e surpreendam.

Hahnemann e Avogadro
Hahnemann foi contemporâneo de Amadeo Avogadro (1776-1856) mas certamente não conheceu o trabalho do grande químico e físico italiano. O Organon foi publicado um ano antes da formulação da hipótese de Avogadro; muitos anos antes, portanto, da determinação do número que veio a ser conhecido por Constante de Avogadro. Avogadro descobriu que o número de átomos ou moléculas em um mol de uma substância qualquer é constante. Esse número determinou-se mais tarde é igual a 6,022137 x 1023. Um mol, ou molécula-grama, é o equivalente em gramas da massa molecular da substância. A massa molecular da água, por exemplo, é 18, pois a molécula da água, H2O, contém dois átomos de hidrogênio, de massa atômica 1, e um átomo de oxigênio, de massa atômica 16. Assim, há exatamente 6,022137 x 1023 moléculas em 18 gramas de água.

As leis da química permitem determinar a solução mais diluída que pode ser preparada sem a eliminação completa da substância original. Estatisticamente, só é garantida a presença de pelo menos uma molécula do princípio ativo em soluções mais concentradas do que uma parte de soluto por volume equivalente à constante de Avogadro de partes de solvente, ou seja, 1 parte de soluto por 6,022137 x 1023 partes de solvente. Isso quer dizer que a partir das potências homeopáticas 24DH ou 12CH, ou 1 parte em 1024, a chance de existir uma única molécula do princípio ativo no medicamento é quase nula, e diminui ainda mais com a elevação da potência.

Sucussão da Pororoca
O Amazonas, maior rio do mundo, por onde passa um quinto de toda a água da superfície do planeta, descarrega no mar cerca de 175 mil metros cúbicos de água por segundo. O volume é tanto que a 150 km de sua foz as águas do mar ainda são menos salgadas devido ao enorme volume de água despejado pelo rio. Fazendo as contas, verificaremos que a vazão do Amazonas é igual a 1,75 x 1011 centímetros cúbicos por segundo. Um centímetro cúbico de água contém aproximadamente quinze gotas; a vazão em gotas por segundo é, portanto, de 2,63 x 1012. Na diluição homeopática 30DH, uma parte de princípio ativo digamos, uma gota é diluída em 1.000.000.000.000.000.000.000.000.000.000 gotas de água. Para despejar essa quantidade de gotas, o Amazonas levaria cerca de 3,81 x 1017 segundos, ou seja, 12.079.920.756 anos. Imagine que fosse possível arranjar um meio de conter toda essa água, que é equivalente a milhares de vezes o volume de todos os oceanos da Terra. Para chegar à diluição 30DH seria só pegar um conta-gotas, ir até a foz do Rio Amazonas, no Pará, pingar uma gota de princípio ativo no rio e aguardar pouco mais de 12 bilhões de anos até a diluição final. E esperar que a pororoca se encarregue da sucussão.

O Pato de 20 Milhões de Dólares
Se o leitor ficou surpreso com o cálculo acima, apresento outro ainda mais surpreendente, este de Robert L. Park, físico da Universidade de Maryland, nos EUA. Um produto chamado Oscillococcinum, produzido a partir de fígado e coração de pato, é comercializado na potência 200CH. Se uma única molécula da substância original pudesse estar presente no produto final, sua diluição seria de 1 por 1 seguido de quatrocentos zeros um número maior do que o número estimado de átomos em todo o universo conhecido, que não é mais do que um mísero googol, ou seja, 1 seguido de apenas 100 zeros. O Oscillococcinum é vendido como tratamento para os sintomas de gripes e resfriados. A revista americana U.S. News & World Report (17/2/97) observou que um único pato seria suficiente para fabricar o estoque anual do produto [o fígado de apenas um pato poderia, na verdade, servir para fabricar todo o estoque do produto até o fim dos tempos], cuja venda total foi de 20 milhões de dólares em 1996. Como se vê, a popularização do uso do Oscillococcinum não chega a ameaçar os patos de extinção.

Os remédios homeopáticos para uso interno são ingeridos na fórmula de glóbulos, tabletes, pó ou diretamente na forma de solução hidroalcóolica ou aquosa. As formas sólidas glóbulos, tabletes e pós são fabricadas pingando-se uma gota da solução diluída sobre um veículo inerte, geralmente sacarose ou lactose. Park calculou que, para ter certeza de ter ingerido uma única molécula da substância medicinal presente na potência 30DH, seria necessário ingerir dois bilhões de tabletes, cerca de mil toneladas de lactose mais as impurezas que a lactose porventura contenha.

Os fatos apontados acima são entendidos e aceitos pelos homeopatas. O próprio Hahnemann percebeu que provavelmente nenhuma molécula da substância original restaria após essas diluições extremas as chamadas diluições ultramoleculares. Hahnemann acreditava, no entanto, que a ação vigorosa da sucussão deixa no solvente uma "essência espiritual imperceptível aos sentidos" que estimularia as "energias vitais" do corpo. Se hoje esse tipo de linguagem soa pouco científica, no tempo de Hahnemann ela podia-se justificar. Basta lembrar que seus colegas de profissão ainda falavam em extrair o sangue mau e balancear humores.

Mais do Que Uma Vaga Lembrança
Alguns proponentes atuais da homeopatia, incapazes de contestar a realidade física da constante de Avogadro, afirmam que mesmo quando desaparece a última molécula do principio ativo, sua "memória" permanece na solução. O assunto, antigo, ganhou vida nova em 1988 quando Jacques Benveniste e seus colegas publicaram na prestigiosa revista Nature um trabalho que parecia indicar que anticorpos diluídos em soluções de até 30DH bem acima do limite teórico de Avogadro ainda conseguiam produzir respostas biológicas (Nature http://www.nature.com/ 333: 816, June 30, 1988).

Benveniste atribuiu essa propriedade à "memória" da água, que, após a sucussão, ainda se "lembrava" dos anticorpos que encontrara antes embora não existisse uma molécula sequer deles na solução diluída. Diante do ataque da comunidade científica ao artigo, o editor da revista, John Maddox, disse em editorial duvidar do acerto das conclusões de Benveniste, mas que as publicara assim mesmo em nome do livre intercâmbio de idéias.

A controvérsia gerada levou a Nature a nomear uma comissão científica para investigar o caso. Concluiu-se que os procedimentos de Benveniste careciam dos procedimentos rigorosos que devem orientar a pesquisa científica. O experimento de Benveniste nunca foi reproduzido com sucesso por pesquisadores sérios e, com o tempo, Benveniste começou a cair em desgraça. Na percepção de seus colegas, Benveniste passou de cientista respeitado a doido varrido, perdendo verbas de pesquisa e seguidores fora do círculo de homeopatas radicais. O próprio Benveniste não coopera muito com os que tentam resgatar-lhe a imagem, pois sua última descoberta é que a vibração das moléculas pode ser captada, gravada e enviada por telefone, produzindo efeitos à distância. Por essa contribuição, Benveniste ganhou o Prêmio IgNobel da Universidade Harvard, atribuído anualmente a pesquisas estapafúrdias.

A Falta de Memória da Água
Concedendo o benefício da dúvida aos que acreditam que Benveniste seja mais um mártir da arrogância da ciência oficial, esforcemo-nos para acreditar, por um breve momento, que a água consiga, de alguma forma, "lembrar-se" de outras moléculas com que tenha tido contato. O que deveria nos surpreender neste caso não é a memória, mas a falta de memória da água. A água que existe no mundo já viu muita coisa; já foi nuvem, mar e rio; já foi arrastada em enxurradas desde a cidade de Ur na Mesopotâmia até a favela da Rocinha; já passou pela banheira de Cleópatra e pela bexiga de Júlio César; já escorreu pela fronte de Napoleão e pelas cachoeiras da Casa da Dinda. Espanta que tenha se esquecido de tudo o que viu. Continuemos, no entanto, a demonstrar a nossa boa vontade para com os homeopatas e assumir que a destilação faça a água "esquecer" as moléculas que tenha encontrado em seu passeio através dos tempos. Vamos também fazer de conta que a destilação elimina todas as substâncias dissolvidas na água, o que não é verdade. O que dizer então da contaminação no momento do preparo? O que acontecerá se uma partícula de impureza atingir a água no momento anterior à sucussão? É fácil imaginar como isso pode acontecer no laboratório de manipulação. Vamos a um exemplo.

A fabricação de semicondutores exige extrema atenção quanto ao nível de partículas presentes no ambiente. As salas limpas são classificadas como classes de pureza 1, 10, 100, 1000, 10.000 ou 100.000, dependendo do número de partículas de até 0.5 ?m por pé cúbico de ar. Para se ter uma idéia o que isso significa, o limite de visibilidade do olho humano é de 50 ?u, cerca de metade da espessura de um fio de cabelo. Semicondutores são fabricados em salas limpas de classe de pureza melhor do que 100, onde a exposição de qualquer parte do corpo humano não é tolerada. A razão dessa precaução somos nós humanos, animais sujos, que deixamos um rastro de resíduos por onde passamos. Estima-se que em sessenta segundos uma pessoa imóvel gere cerca de 100 mil partículas fragmentos de pele, sal, gotículas de óleo, umidade, desodorante e cosméticos de tamanho suficiente para danificar um circuito integrado em fabricação. Pois bem, ainda que os remédios homeopáticos fossem preparados numa sala limpa de classe de pureza máxima, a chance de haver mais partículas estranhas do que moléculas do princípio ativo na preparação final seria grande. E os laboratórios de manipulação, como se sabe, estão longe de rivalizar com a Intel em matéria de limpeza. Como é que a água sabe distinguir o que é princípio ativo e o que é uma molécula de enxofre do xampu da preparadora? Como distingue, na memória, a molécula do fígado de um pato das milhões de moléculas orgânicas que o preparador despeja no ar pelo mero ato de respirar?
É melhor retomarmos aqui o nosso ceticismo científico, pois a crença nos axiomas da homeopatia exige o abandono do pensamento que conduziu a ciência e a tecnologia a onde se encontram hoje. Retomemos também a reportagem da Folha de S.Paulo.

O Que Dizem os Homeopatas
Quanto a reação à crítica científica da especialidade, há homeopatas que dizem ter tirado de sua experiência clínica com a homeopatia demonstrações suficientes de sua eficácia como método terapêutico e há os que insistem em achar um arremedo de explicação científica para essa crendice do século dezenove. Os primeiros beneficiar-se-iam da revisão de alguns conceitos de estatística, método duplo-cego e efeito placebo. É fato conhecido que em experimentos duplo-cego em que nem o experimentador nem os sujeitos do teste sabem quem está tomando o medicamento e quem está tomando o placebo uma parte significativa dos que tomam o placebo apresentam melhora de seu quadro clínico. Quanto ao segundo tipo, os que tentam justificar cientificamente a homeopatia, não há o que dizer a posição é insustentável. As explicações oferecidas para o mecanismo de ação da homeopatia não passam pelo escrutínio de um aluno de primeiro ano de física. Teorias difíceis e mal compreendidas como a física quântica e o princípio da incerteza de Heisenberg são misturadas a crendices extemporâneas e oferecidas como explicação. Isso quando não falam de "forças ainda não descritas pela ciência, que só agora começam a se compreender".

Os especialistas ouvidos pela Folha não parecem ser radicais e recomendam a homeopatia em associação com outros tratamentos. Esse é um bom conselho. O tratamento homeopático não oferece perigo algum quando se trata de gripe branda ou resfriado: o que medicina cura em uma semana, a homeopatia cura em sete dias, já que o tratamento convencional também é ineficaz para aqueles males. O caso é outro, porém, quando se usa a homeopatia para tratar de doenças que possam deixar sequelas ou mesmo causar a morte. Um dos websites homeopáticos que consultei para escrever este artigo aconselha, num raro momento de sabedoria: "Nas doenças infecciosas graves como na meningite, tuberculose, febre tifóide, é conveniente a utilização concomitante com os antibióticos". Não poderíamos deixar de concordar, com uma pequena mudança na redação. Em caso de doenças graves aconselha-se usar o remédio indicado pela medicina científica. Se a crença do paciente exigir, o tratamento pode ser complementado com homeopatia, simpatia, florais de Bach, promessas a Ossanha ou orações a Nossa Senhora de Aparecida.

Religião ambientalista


http://scienceblogs.com.br/geofagos/2008/11/religio-ambientalista.php

by Ítalo M. R. Guedes

Tenho verdadeiro horror à discussão superficial, à unanimidade dogmática e desinformada. O que aprendi, infelizmente não na escola, nem mesmo na universidade, mas lendo Gould, Sagan, Asimov e mesmo Dawkins, foi que o pensamento científico era e é a melhor saída para a rigidez mental típica da mentalidade bidimensional, sem profundidade. Apesar de não me incluir entre os ateus militantes, na verdade classificando-me mais como um agnóstico conciliador, tenho bem em mente que o pensamento religioso não raro dificulta ou impossibilita a discussão de temas mais controversos, pois se baseia na fé, na crença inabalável. A ciência, idealmente, se deveria guiar por dados. Idealmente. Tento ter em todos os aspectos da vida um pensamento, se não completamente cético, o mais crítico possível. Sigo assim os “preceitos” do genial Mário Schenberg, para quem o intelectual deveria manter uma distância crítica em relação às próprias crenças. Vejo, no entanto, que não são raras as pessoas que aceitam alguns fatos, ainda que cientificamente comprovados até o presente, como artigos de fé. Aceitariam estes fatos como verdadeiros, mesmo que a ciência não lhes desse o aval. Este tipo de atitude tem sido comum nas discussões relativas às mudanças climáticas e aos organismos geneticamente modificados.

Vejam bem, isto não invalida os fatos, invalida o modo de encarar a realidade destas pessoas. Li recentemente um post no De Rerum Natura em que se citava um trecho de discurso do recentemente falecido escritor Michael Crichton que achei bem interessante. O autor do post, o físico português Carlos Fiolhais, apesar de não fazer muitos comentários, foi duramente criticado por alguns leitores, aparentemente pela simples razão de não ter criticado Crichton. Desprezo este tipo de patrulhamento ideológico.

Pelo que ouço e leio, Crichton era cético em relação ao aquecimento global pelas atividades humanas. Minha impressão é de que as evidências científicas demonstrando a realidade das mudanças climáticas são muito fortes e expressei isto inúmeras vezes aqui no Geófagos e em outros fóruns de discussão. Na verdade, vejo este blog como um embrião de think tank cujo objetivo principal é pensar estratégias de enfrentamento ou convivência com estas mudanças. Não investiria tanto tempo nisto se não pensasse que as mudanças climáticas são reais. Tendo dito isto tudo, confesso que procurei ler o tal discurso de Michael Crichton e não nego, é um material muito bem escrito, pergunta questões bastante relevante e toca num problema que me preocupa muito: o ambientalismo como religião. Aliás, este é o título do discurso – Environmentalism as religion.

O trecho que Fiolhais transcreveu e que eu traduzo é o seguinte: “Hoje, uma das mais poderosas religiões no Mundo Ocidental é o ambientalismo. O ambientalismo parece ser a religião predileta dos ateus urbanos. (...) Há um Éden inicial, um paraíso, um estado de graça e unidade com a natureza, uma queda em desgraça para um estado de poluição como resultado de se ter comido da árvore do conhecimento, e como resultado de nossas ações há um dia do juízo vindo para nós todos. Somos todos pecadores da energia, fadados a morrer, a não ser que busquemos a salvação, chamada agora de sustentabilidade. A sustentabilidade é a salvação na igreja do ambiente. Da mesma forma que a comida orgânica é sua comunhão, aquela hóstia livre de pesticidas que as pessoas direitas com as crenças certas ingerirão.” E por aí continua ele, num tom que me pareceu equilibrado, embora cético, clamando ao final por uma ciência do ambientalismo no lugar de uma religião do ambientalismo. Não vi uma palavra em seu texto que o condenasse.

Não tenho dúvida que a questão das mudanças climáticas, assim como outras questões de interesse ambiental, tem não raro adotado a retórica religiosa onde seria mais apropriada a objetividade da feia prosa científica. Eu mesmo já fiz isso, e não deveria ter feito. Não sou o único. Em um artigo recente para a revista Prospect Magazine, o filósofo Edward Sidelski reclama por uma necessidade de se resgatarem valores morais quase extintos e diz tradução minha: “É fácil rir do ambientalismo radical. Suas projeções climáticas são duvidosas e mesmo que sejam exatas, não fica claro como um punhado de entusiastas podem reverter o apocalipse que se aproxima. Mas isto não é o importante. O movimento verde pode falar a língua da ciência, mas o que realmente o move é um imperativo ético. É uma tentativa de criar uma sociedade em que algumas escolhas são reconhecidamente melhores que outras, em que a natureza é vista como um obstáculo aos desejos irresponsáveis. Em resumo, é uma religião – uma religião sem Deus.” E vai além, comparando as comunidades orgânicas aos antigos monges beneditinos. O tom aqui é francamente favorável aos ambientalistas radicais, mas diz a mesma coisa que Crichton. Mas as palavras de Sidelski sugerem que o conhecimento científico por si só não é suficiente para despertar um comportamento ético, para guiar uma moral sem a necessidade de religião, o que acho no mínimo discutível.

O ambientalismo tornou-se um sucedâneo de religião, com dogmas inquestionáveis, inimigos da religião (Crichton), uma divindade maléfica (o sistema, as indústrias), infiéis, hereges e toda a profusão de maniqueísmo mal-disfarçado. Eu fico com Crichton: "... no fim, a ciência oferece a única saída para além da política. E se permitirmos a politização da ciência, estamos perdidos. Entraremos uma versão internet do período das trevas".

05 junho 2009

Beleza e verdade

http://marcelogleiser.blogspot.com/2009/05/beleza-e-verdade.html

Einstein defendia o belo como critério de verdade em teorias científicas
Em 1819, o poeta inglês John Keats, um dos expoentes do movimento romântico, escreveu: "a verdade é bela e a beleza, verdade. Isso é tudo o que precisas saber em vida; tudo o que precisas saber". (Perdoem-me pela tradução amadora.) Apesar das várias críticas argumentando que essas linhas são inocentes e que até estragam o poema (como escreveu T. S. Eliot, outro grande poeta), a fama delas ultrapassa os comentários negativos. Tanto que viraram até nome de livro, como no caso da recente obra do matemático Ian Stewart, onde ele conta a história da busca por simetria (que ele equaciona com beleza) na matemática e na física teórica. Historicamente, a matemática é extremamente eficiente na descrição dos fenômenos naturais. O prêmio Nobel Eugene Wigner escreveu sobre a "surpreendente eficácia da matemática na formulação das leis da física, algo que nem compreendemos nem merecemos". Toquei outro dia na questão de a matemática ser uma descoberta ou uma invenção humana. Aqueles que defendem que ela seja uma descoberta creem que existem verdades universais e inalteráveis, independentes da criatividade humana. Nossa pesquisa simplesmente desvenda as leis e teoremas que estão por aí, existindo em algum meta-espaço das ideias, como dizia já Platão. Nesse caso, uma civilização alienígena descobriria a mesma matemática, mesmo se a representasse com símbolos distintos. Se a matemática for uma descoberta, todas as inteligências cósmicas (se existirem) vão obter os mesmos resultados. Assim, ela seria uma língua universal e única. Os que creem que a matemática é inventada, como eu, argumentam que nosso cérebro é produto de milhões de anos de evolução em circunstâncias bem particulares, que definiram o progresso da vida no nosso planeta. Conexões entre a realidade que percebemos e abstrações geométricas e algébricas são resultado de como vemos e interpretamos o mundo. Em outras palavras, a matemática humana é produto da nossa história evolutiva. Claro, civilizações que se desenvolverem em situações semelhantes (na superfície de um planeta rochoso com muita água e vegetação, sob um sol irradiando principalmente na porção visível do espectro eletromagnético etc.) poderão obter uma matemática semelhante: a matemática reflete as mentes que a criam. Mas qual a relação da matemática com a beleza? Matemáticos e físicos atribuem beleza à teoremas e teorias, criando uma estética da "verdade". Os mais belos são aqueles que conseguem explicar muito com pouco. Quando possível, os teoremas e teorias mais belos são também os mais simples; dadas duas ou mais explicações para o mesmo fenômeno, vence a mais simples. Esse critério é conhecido como a "lâmina de Ockham", atribuído a William de Ockham, um teólogo inglês do século 14. Einstein, dentre outros, era um defensor da beleza como critério de verdade em teorias científicas: uma teoria tem que ser bela para estar correta. E, sem dúvida, muitas dela são, ao menos de acordo com critérios de elegância e simplicidade na matemática. Para os que creem na matemática como linguagem universal, essa estética leva à existência de uma única verdade. Acho isso preocupante, pois me soa como ecos de um monoteísmo judaico-cristão, uma infiltração religiosa, mesmo que sutil e metafórica, nas ciências. Melhor é defender a matemática e a beleza como nossa invenção. Criamos uma linguagem para descrever o mundo, que não podemos deixar de achar bela. Macelo Gleiser

03 junho 2009

cumulus nimbus

http://pt.wikipedia.org/wiki/Cumulonimbus
Os cumulonimbus são nuvens convectivas de trovoada que se desenvolvem verticalmente até grandes altitudes, com a forma de montanhas, torres ou de gigantescas couve-flores. Têm uma base entre 300 e 1.500 metros e um topo que pode ir até 29 km de altitude podendo até ter quase 3 vezes a altura do monte Everest, sendo a média entre 9 e 12 km. O topo é caracterizado pela chamada "bigorna": uma expansão horizontal devida aos ventos superiores, lembrando a forma de uma bigorna de ferreiro. São formadas por gotas d'água, cristais de gelo, gotas superesfriadas, flocos de neve e granizo.

Os cumulonimbus são alimentados por fenómenos de convecção muito vigorosos (por vezes com ventos de mais de 50 nós). Na base, são formados por gotículas de água, mas nas zonas mais elevadas da "bigorna", são já formadas por cristais de gelo.

Podem estar associados a todas as formas de precipitação forte, incluindo grandes gotículas de chuva, neve ou granizo. Uma trovoada é basicamente uma nuvem cumulonimbus capaz de produzir ventos fortes e tempestuosos, raios, trovões e mesmo, por vezes, violentos tornados.