(吉田光男作成)こうした事態の中で、93年10月、S・M氏がヤマギシ批判の「私のみたヤマギシズム社会の実態」を発表、続いて94年5月、T氏が『ヤマギシ会の暗い日々』を出版、同年6月には「ヤマギシを考える全国ネットワーク」(代表・松本繁世)を立ち上げた。また実顕地内では、美里実顕地のK氏が、「賃金未払い」ということで、津地裁に提訴した。これは調正機関脱退者からの初めての訴訟であり、これ以後参画時の出資財産返還訴訟が何件も繰り返されることになる表、続いて94年5月、T氏が『ヤマギシ会の暗い日々』を出版、同年6月には「ヤマギシを考える全国ネットワーク」(代表・松本繁世)を立ち上げた。また実顕地内では、美里実顕地のK氏が、「賃金未払い」ということで、津地裁に提訴した。これは調正機関脱退者からの初めての訴訟であり、これ以後参画時の出資財産返還訴訟が何件も繰り返されることになる。
一方、実顕地では、「オールメンバー研」が開かれ、毎年5月山岸さんの墓前で「オールメンバーの誓い」を声高に唱える行事が行われるようになった。外部の批判に揺るがない自己の確立を目指したものではなかったかと思う。
このようなさまざまな動きにもかかわらず、夏の楽園村には全国で6000名を超える参加者があった。まだ拡大は衰えてはいなかった。また、この当時のマスコミは、一般にヤマギシに好意的であった。生産物や楽園村、学園の紹介を、新聞・週刊誌等が積極的に取り上げてくれた。しかし、これが急激に反転する事態が訪れる。
このようなさまざまな動きにもかかわらず、夏の楽園村には全国で6000名を超える参加者があった。まだ拡大は衰えてはいなかった。また、この当時のマスコミは、一般にヤマギシに好意的であった。生産物や楽園村、学園の紹介を、新聞・週刊誌等が積極的に取り上げてくれた。しかし、これが急激に反転する事態が訪れる。
一方、実顕地では、「オールメンバー研」が開かれ、毎年5月山岸さんの墓前で「オールメンバーの誓い」を声高に唱える行事が行われるようになった。外部の批判に揺るがない自己の確立を目指したものではなかったかと思う。
このようなさまざまな動きにもかかわらず、夏の楽園村には全国で6000名を超える参加者があった。まだ拡大は衰えてはいなかった。また、この当時のマスコミは、一般にヤマギシに好意的であった。生産物や楽園村、学園の紹介を、新聞・週刊誌等が積極的に取り上げてくれた。しかし、これが急激に反転する事態が訪れる。
このようなさまざまな動きにもかかわらず、夏の楽園村には全国で6000名を超える参加者があった。まだ拡大は衰えてはいなかった。また、この当時のマスコミは、一般にヤマギシに好意的であった。生産物や楽園村、学園の紹介を、新聞・週刊誌等が積極的に取り上げてくれた。しかし、これが急激に反転する事態が訪れる。
〈混乱・縮小前期――1995年~99年〉1995.01.01(平成7)年1月、阪神大震災が発生、次いで3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きる。阪神大震災は、それまで何となく続いていた社会の太平ムードを打ち砕き、地下鉄サリン事件は新宗教やそれと同類と見られた集団(ヤマギシもそこに含まれていた)に、"カルト”‟洗脳”のレッテルを貼り付けることになった。
1995.08.01この年8月、「ヤマギシを考える全国ネットワーク」が、脱退者と参画者の家族に、実顕地に対する訴訟の勧めをアピールした。これに応じた広島のY氏が参画時出資金の返還を求める訴訟を起こす。
1995.08.01翌96年には、Mさんの出資金返還訴訟など、情報公開請求を含むさまざまな訴訟に見舞われることになった。
こうした時代背景のもとで、それまでデパートに一定の売り場面積を確保していたヤマギシの店が、次々と閉鎖されるようになった。「安全食品連絡会」という団体からの閉店要請を受けてのことであるが、元参画者による「牛乳の日付改ざん」の告発も、生産物の安全面での信頼を失うきっかけになった。
1996.02.01 一方実顕地のほうは、この頃から「本もの」という言葉を多用するようになった。96(H.8)年の2月度テーマは「基盤整備 本もの本質を本筋に乗せる」である。しかし、何が「本もの」であるかの研鑽は十分行われず、実顕地生産物はすべて「本もの」である、という抽象的であいまいな考え方に向かってしまった。この自己肥大化した考え方は、とうてい外部からの批判に耐えられるものではない。しかし、まだ活用者の支持は強く、生産物が大きく減少することはなかったし、特講も活発だった。
1996.11.01 この頃から学園生の祖父母たちによる子どもとの面会要請や、子ども引き取り要求が激しくなる。この動きは、96年11月の「ヤマギシの子供を救う会」の結成(ジャーナリストの米本和弘氏と学園生の祖父母)に至る。これに呼応して、ジャーリズムは一斉に反ヤマギシキャンペーンを開始する。96年11月、日本テレビは「今日の出来事」でヤマギシの子どもを5回に亘り放映、「週刊新潮」など週刊誌も、格好の話題としてこの問題を取り上げた。産経、読売を始めとする各新聞社も同様である。
こうした反ヤマギシ包囲網の中で、実顕地はどう対応したか。
1997.03.01 97(H.9)年3月度テーマは「日常の総ての現れは もとの心の顕れ」である。また子どもに関しては、96(H.8)年7月度テーマが「親が子供に対して外さない いき方」、9月度が「親と子の異い 親が実践 子供も実践」である。これらテーマの真意は、子どもに対してはわがままを許さない、学園をやめたいとか、係りに対する不満を言わせない、ということであり、また動揺する親に対してはそれは「もとの心」がイズムから外れているからではないか、と引き締めをはかるものであったろう。だから、自分の子どもが「学園をやめたいと言っている」というような話は、村人どうしで話し合われることはほとんどなかった。いきなり村を出る人がいて、「なぜか」と聞くと、ようやく重い口を開いて「子どもが出ると言ってきかないから」と話してくれたりした。
1997.09.01 こうした中で、97(H.9)年、名古屋税務局の税務調査が始まった。この事件は全国紙で「ヤマギシ 脱税疑惑で捜査」と報じられた。翌98年4月、「ヤマギシ会200億円の申告漏れ」と各紙に報じられ、実顕地は60億円の追徴課税を余儀なくされた。
一方学園のほうは、97年度テーマに「学園 小中一貫学校法人設立へ始動」とあるように、公立校設立準備を始め、
1998.04.01 翌98年4月に「やまぎし学園」設立認可申請書を県に提出した。しかし、これに対しては「祖父母の会」を始め反対運動が根強く、日弁連が「子どもの人権擁護」という観点から勧告を出したり、また県が小中学生に対するアンケート調査を行い、認可不適切の方向へ大きく傾いた。
1998.10.01 ところが98年10月、突然「村から街へ、イズム普遍化の秋来る」というテーマが出された。これは、それまでの全員参画、実顕地拡大という流れとは逆行するものであった。いわば、実顕地解体の方向である。これは、真意不明のまま村人の混乱を引き起こした。こうした最中に、これまで実顕地の運動を指導していた杉本利治さんが亡くなった。
1999.06.01 そのため実顕地は、99(H.11)年6月、申請を取り下げることとなる。この90年代後半の時期は、実顕地にとってまさに激動の時代である。村の指導部門に、ある種の亀裂が見られるようになった。それは村人テーマに表れている。
98年3月度「行ける所へ 行きたい時に 行く自由」
98年4月度「やりたい人がやりたい丈やる自由」
99年9月度「自主 自発 自立 自律」
これらのテーマは、それまでの一定の強い方向性をもったテーマから「自主」や「自由」を強調する方向へ転換している。しかし、完全に変わったわけではなく、方向性をもったテーマとしばらくは同居していた。
〇関連年表
1993年2月:オールメンバー研開催(2000年2月第34回まで続く) 世話係として、Sさんが一貫して担当する。
5月:オールメンバーの誓い(17名の発表)-以後毎年続く1998年まで続く。
10月:『自然生活』に松本繁世氏「私のみたヤマギシズム社会の実態」掲載。
この年新参画者348名で過去最高記録
1994年6月:「ヤマギシを考える全国ネットワーク」結成・代表松本繁世氏
12月:『ヤマギシズム学園の光と影』「ヤマギシを考える全国ネットワーク」編・発刊
1995年1月;「ヤマギシ会」→「幸福会ヤマギシ会」に会名変更
1996年11月:吉田通昌著『循環農業の村から』発刊
1997年9月:「ヤマギシの子供を救う会」活発化。税務調査始まる
12月:米本和広著『洗脳の楽園』発刊
1998年1月:モデルメンバー研開催(99年11月第12回まで続く)
4月:ヤマギシ会200億円の申告漏れ(追徴課税60億)
10月:9月度のオールメンバー研から端を発した「村から街へ」の動きが、10月度のテーマになり、新たな動きへと大きくうねり始め、街へ行く人が次々と。
1999年3月:実顕地から試験場、研鑽学校を切り離しそこ独自の活動をするための数名の新配置。
この後、上記のメンバーは次第に脱退するようになる。
7月:実顕地をもたらしに世界中の街へいこう(ストリーム掲載)
11月:杉本利治氏死去。(税務調査以後、鬱的な状態にあり実務に携わっていなかった)
12月:気の合う仲間で実顕地を起こそう。国内各地町にも村にも実顕地を(ストリーム掲載)
12月28日:第33回オールメンバー研(実顕地を離れて活動している22名の参加)
離脱後、鈴鹿地区で「実践の書」研を継続的に開催。
そこに、現実顕地の方向に疑問を感じている人や「村から街へ」を行った人たちが次々と参加して、その動きに共鳴する人が増えていく。
2001年:鈴鹿市にかなりの人が暮らすようになり、家族的なコミュニティが確実に広がっていく。
2004年1月:人間社会研究所→2007年・研鑽科学研究所→サイエンズ研究所が基礎となりサイエンズスクール鈴鹿・アズワンコミュニティなど機構が整っていく。
〈衰退期――2000年~2012年〉
2000(H.12)年から村のテーマが一切なくなった。方向付けをしない、というか方向付けができない状況になったのである。そして村から街への流れの中で、脱退者が相次いだ。ただこの脱退者のうちには、ヤマギシズムそのものに反対してというのではなく、今の実顕地に異を唱えてという人がかなり含まれていた。そして、この年の12月には、S氏などの人たちが鈴鹿に居を移し、新たな運動拠点を構築した。これによって、村を出る人、それに強く反発する人、両者の間で迷う人と、村人の間でしばらくは混乱が続いた。こうした動きは、学園の解体を早め、学園廃止に追い込まれる実顕地が相次いだ。当然、楽園村も参加者が減り、特講も縮小した。また、活用者グループの解体により、生産物の供給も急速に減少した。1980年以降、供給拡大、楽園拡大、特講拡大、学園拡大、実顕地拡大と互いの相乗効果で伸び続けてきたヤマギシズム運動が、ここへ来て負のスパイラルに陥ったのである。
このような時にもっとも大事であるはずの研鑽が、十分に力を発揮できなかった。というよりも、研鑽力が村人の間に十分養成されていなかったということであろう。「聞く」「検べる」という最も基本的な部分が欠落していたのではないか、と思う。調正所の言うことは聞けても、それに反対する人の意見は聞けなかったり、またその逆であったりした。つまり、誰の言うことでも聞けて、誰に対しても言えて、では本当はどうかと検べる、検べ合う――この基本的な研鑽力が身についていなかったのである。
これは、これまでの特講、研鑽学校のあり方、中身を検討するいい機会であったと思うが、ほとんど取り上げられることはなかった。そして従来通りの研鑽体制を今なお踏襲している。
この2000年前後の時期で記憶に残っていることの一つに、こんなことがあった。熊本の甲佐実顕地にいるとき、何人かの供給所のメンバーが、配送車や運輸トラックに書かれた「ヤマギシ」の文字を薬品で消しているのだ。「何しているのか」と聞くと、本庁から消すようにとの指示があった、というのである。周囲からの反ヤマギシキャンペーンが盛んなこの時期こそ、「我々はヤマギシです」と胸を張ってなぜ言えないのか。なぜ隠さねばならないのか。同じように、農産物でも、これまで「本もののヤマギシの生産物」と謳っていたのに、「なになに農園の農産物」とヤマギシの名前を隠すことがはやり出した。こうした姿勢の裏に、何があったのだろうか。次の運動の発展のためには、避けて通れないテーマのはずである、と思うのだが



